■ 新聞と読者の良識が問われる匿名投書

 以前にもこだま欄で匿名投書の是非を問う論議が引き起こされたことがあったが、二月十八日のこだま欄をみて驚いた。三編の投書の全てが匿名なのである。
 そのうちの一編は賛否両論のある計画についての手放しの礼賛であるが、匿名にすることにより特定の立場からの運動ではないかという勘ぐりを生むことになる。別の一編は様々な議論のある憲法についての一意見だが、匿名にすべき必然性はないように思われた。
 一方、同じ日の東奥日報の投書欄の三編、毎日新聞の九編は全て実名である。
 確かにどうしても匿名にしなくては書けない場合があることは理解できる。しかし、誰がどのような目的で書いているかわからない匿名の投書はその内容についての信用度が格段に低くなるため、匿名の投書を多く採用する新聞はジャーナリズムとしてのモラルが低いものと評価されるのが一般的である。他紙における投書欄の実態を知らないためにあまり疑問に思わない方が多いのかもしれないが、私が八戸に住んで貴紙を毎日読むようになって違和感を覚えたことの一つが、その匿名投書の多さであった。
 投書欄はトップ記事や社説に劣らないその新聞の顔である。新聞の投書は原則として実名でなされるべきで、匿名にするのはやむを得ない場合に限るものとし、編集者は匿名での掲載をできるだけ少なくするよう努力するのが一般的な常識であると理解していたが、そういった意識が読者にも編集者にも欠けているのではないかと考え、あえてここに一石を投じる次第である。
 多くの市民が読むこのこだま欄をより意義のある議論の場に育てていきたいのか、現在の姿を好ましいものと感じるかは、読者と編集者の双方の意識がまさにこだまのように反響しあいながら自ずと定まっていくものと思われる。建設的な議論を望みたい。

(八戸市 久芳康朗 37)


2000.02.18 上記の趣旨で一通り書き通した後、推敲を重ね、
2000.02.23 デーリー東北に投稿(...多分掲載されないと思う)。
2000.03.12 やはり掲載されなかったが、BBSの議論に対する長文の返事を掲載。以下に再掲するが、前後関係は下記のBBSをご覧下さい。

☆ この原稿に対するご意見は、くば小児科BBSの該当ページまでどうぞ。


「インターネットと新聞という新旧メディアにおける匿名性の問題」

 ナビ松さんへの返事と一緒に書かせていただきますね。新聞の話とネットの話がごっちゃになってわかりにくいかもしれませんが、同じ流れの中で分けて考えてみたいと思います。と思ったのですが、きれいに分けて論じられなかったのでそのまま掲載します。

 >匿名でないと投書できない立場もあると思います。
 >さらに本音がでるのが、匿名ではないか

 そういう議論が出てくるのは予想されたことで、原文にも「そのような場合があることは理解できる」と書きましたが、ここでは全て匿名でとか全て実名でということを主張したり、その優劣を比較しようとしているわけではないのです。

 日常生活の中で抑え込まれている一市民の声を社会に届かせることができるという匿名の利点も認めた上で、その欠点をもう一度考え直してほしいのです。

 本来は組織に属しているから個人が社会に向かって発言することが出来ないということはないはず。なのですが、そうはいかないことも重々承知しています。私だって医師会などに属しており、また、狭い地域社会の中で目立つようなことをしたり書いたりすれば、極端な話、本業に差し支えることは充分考えられるわけです。

 のですが、それは決して健全な姿ではなく、また、新聞投書は、一つにはそこは内部告発(チクリ)や名指し(にしなくても地元の人にはわかる)の非難の場ではなく、二つ目としては、社会の不健全さを助長するのではなく是正するような働きを演じるのが新聞という「公共の」メディアの役割のはずです。

 このような、新聞のような限定されたオールドメディアを通じてではなく、一般市民が直接社会に声を届かせることができる手段として、インターネットは圧倒的な利点を有しているのはどなたもご存じの通りで、まさに情報通信の革命だったわけです。上手く使えば匿名の大衆の意見を吸い上げるのに非常に有効な手段で、本来、ネットワークの向こうにいる大衆は、アメリカの大統領選挙で勢力図を書き換えたような潜在的なパワーを持っているのですが、そのようなポジティブな使われ方は現実にはさほど多いとは言えません。

 →大成功のアリゾナ州オンライン投票 (HotWired Japan)

 パソコン通信の時代にもネットワーク社会は芽生え、発展してきましたが、インターネットというメディアにより圧倒的な広がりを得ることができました。が、ネットワーク社会が持つDark side of the Moon、匿名のメディアの不健全さもそれに比例して拡大され続けてきました。

 昨年の東芝の問題は記憶に新しいところですけれども、あのとき「このケースでは東芝ザマアミロと言いたくなるのですが,よく考えてみると難しい問題をはらんでいるんですね.医療関係でも,いわゆる『問題サイト』が存在しているのはご存じの通りで」と書きました。その「難しい問題」は更にエスカレートしているのが現状です。

 →News23 多事争論 7月15日(木) 「ホームページ」

 例えばこんなサイトがありますが、夢中になって読み出さないように注意して下さい。

 →怪文書保存館

 医療関係では設立母体を明記せずにオンブズマンや医療監視を名乗った「ゆすりたかり」ページが複数登場して問題になっています。先日、国内の多数の医療機関に医療監視市民オンブズマン (METSCO) から文書が送られてきました。これは「民間で医療監視を実施し不正を告発していく」というものだということですが、医療機関が30000円を払って会員になれば監督官庁には告発しないで当該医療機関への文書指導で済ませるという代物でした。

 一方、日本インターネット医療協議会(JIMA)のように自主的にネット上の医療情報の信頼性を確保しようという動きも出ています。私自身はこの団体にまだ参加していないが、次の記事に出てくる三谷氏や西藤氏とも面識があり、発足当時よりその動向には注目し続けていました。

 →ネットの医療情報、こう使う 「出所」と「質」を十分に確認を(asahi.com)

 神戸の事件のときに、容疑者の少年の顔写真がネット上に流布されました(私は確認していない)が、そのときも、自分で自分の首を絞めているのがどうしてわからないのだろうと書きました。あれは3年前。

 石原都知事の「蜘蛛の糸」政策に、庶民の敵の銀行を知事が懲らしめる勧善懲悪の構図で快哉を叫んでいる都民は、いったんこの手法を許すと最後には自分のところにとんでもないツケがまわってくるのではないかという疑いが脳裏をかすめないのだろうか(...私には判断がつきかねますが手放しで賛成とは言えません)。その是非はともかくとして、「東芝ザマアミロ」と「銀行ザマアミロ」が同じレベルであることは間違いないと思う。

 かつてのニフティや現在のYahooの掲示板のように、匿名参加の掲示板は時として無法状態と化して好き勝手なことを書き捨てるとても言論とは言えない無責任な場になりがちです。ハンドル名を使う場合でも入会基準があってシスオペがきちんと審査しているところでは少し安心して話せるようになり、逆に匿名の場では本当に責任のあるきちんとした意見は言いにくくなるのが実状だと思います。

 こういったネットワークのネガティブな動きは現実には大した力にならないばかりか、一般社会から排除される要因を自分たちで作りあげているのが現実だと思います。そして、各国の規制の状況をみると、インターネットの最大の利点を自ら手放さなければならない日が来るのは近いと言わざるを得ません。

 →インターネット匿名性の終焉? (HotWired Japan)

 もちろん、民主党のテープで何とか金融再生委員長の「配慮発言」のような暴露がでてくるのはむしろ健全な姿と言え、それに対して直接の規制はできませんが、ある程度自分や相手の顔をみせなければ、実りのある対等な議論は行えません。社会的弱者でもない人が自分を誰だか隠して影響力を行使しようとするのは、アンフェアと言われても仕方がないでしょう。また、匿名の声は確かに一つの力になりうるのですが、通常はナビ八BBSやくば小児科BBSに書かれたことは空に消えてしまい、現実的な声にはなっていかないのが現状だと思います。

 もう一つ、重要な問題は報道機関による報道被害の問題です。これについては詳しくは書きませんが、匿名の告発者による実名報道で人権侵害が生ずる可能性は非常に高い。というよりも、既に生じていることはご存じのことと思う。新聞の投書欄においても同じこと。報道機関のモラルには大きな差があり、いわゆるマスコミの大半はこの点で信用しきれないものであるが、これがインターネットの世界になると全く収拾がつかなくなる。

 →浅野健一ゼミ(同志社大学)
 →人権と報道・連絡会

 月光仮面が今ある世界を変えてくれるというのは庶民感情としては楽しい想像であるが、それが叶わないから代わりに石原知事に夢を求めるというのはちょっと悲しい気もする。ネットワークが現実社会の裏返しと言うよりも現実社会そのものであるということはナビ松さんも指摘していますが、現実社会の中で闘っているのは、オウムに対する江川さんや住専の借金や大量の廃棄物の山と闘っている中坊さんだけではなく、様々なところで声をあげている一人ひとり名前もあり社会的な立場もある市民であり、匿名の声は影の力とはなりうるが、主役とはなり得ないのです。

 この辺のニュアンスが伝わるかどうか、自信がないのですが、例えば青森にはシャガールのアレコの問題を取り上げているオンブズマン組織があるけれども、この八戸にはそういった動きはほとんどありません。その遠因には地元メディアの在り方が関わっており、それが地域の言論界の健全な発展を阻害していると感じているのは私だけでしょうか。

 →月刊Amuse2000年3月号参照

 ある特定の立場に立ったと思われる意見が実名で出されるのは、それは健全な姿ですから構いません。中立なる立場からの公正な意見というのはこの世には存在しません(もしそうだと称していたらその意見を信じてはいけません)。ですから、肩書がついていたらそれによって読み方にバイアスがかかるというのはむしろ逆で、すべからくその人の意見というのはその人自身が依って立つものを反映しているのですから、匿名の意見は場合によっては意図的にそれを隠していると思われても仕方がありません。

 ここでとりあげた2月18日掲載の「賛否両論のある問題」というのは場外馬券売場誘致の件ですが、自分の立場を明らかにせずにあたかも一般市民のふりをして書いた(と思われる)手放しの礼賛投稿を掲載し、またその2-3日後にも同じようなものを続けて掲載するというのは、投稿者と新聞社がつるんで世論を誘導しようとしていると勘ぐられても仕方がないと思う(この手法は大新聞でも用いる常套手段なので普通に読めばそう読めるということで、そうだと断定しているわけではありません)。

 また別の日には、冬季国体の際に地元への便宜を図ったT議員への感謝をあらわすという内容の投書も掲載。またまたその後、現市長が引退するということを断定した内容の投書を掲載。その後にわざわざ言い訳の断り書きを掲載。まったく何をかいわんや。こういうのは読んでいて情けなくなりませんか(何とも思わない方には特にそれ以上主張しようとは思いませんが)。

 勘ぐり過ぎとか批判的すぎると思われるかもしれないが、むしろこういう新聞に対する市民の監視の目が働いてバランスをとってこそメディアは成り立つのであり、常に読者の目を意識していないと、特に地方紙の場合は地元の行政や企業・商工団体などに批判的な記事が書けない太鼓持ち新聞に成り下がってしまう危険性が高い(というよりも既にそうなっています)。

 この「くば小児科BBS」は匿名可ですが、もう一つ実名で語り合えるクローズドのネットワーク「八戸Talk」の試みも始まっています。「八戸Talk」は(隠していましたが実は)こだま欄に対するアンチテーゼとしてつくられたものであり、決してなびはちBBSやくば小児科BBSと対立するものではなく、両方のメリットを生かした形でネットワークをより身近で目に見える形で活用していきたいという目的のもとにつくられました。誰が読んでいるかわからないところでは、名前を出して本音の意見は書けません。実名で議論に参加するためには、お互いの顔が見えるクローズドのネットワークがどうしても必要になります。今のところ少人数ではありますがメンバーが集まりつつあるところで、今後の発展に期待していきたいと思います(...ナビ松さん乗り遅れてるよ、早くね)。

 →「八戸Talk」のご案内

 ここまで書いて、週刊金曜日で私が愛読している永六輔の「無名人語録」のことを思い出しました。市井で集めた声をそのまま載せているので、時としてその内容に疑問が残り議論になることもあるが、その大半は多くの人が読んでうなずき共感できるものであり、国会でも地方議会でも民意を無視した政治を続けている政治家に強制してでも読ませたいものです。

 このように匿名は使い方によって威力を発揮することもあれば、間違った使い方で世論を誘導することもある。実名にもリスクはある。そういう当たり前のことをわきまえた上で、特に新聞のような公共の場で実りのある議論をするためには、できるだけ匿名は避けるべきであり、また、ネット上でもそれに準じて匿名と実名の選択を考えるべきである、というのが私の結論です。(たったこれだけのことを言うためにこんなに長くなってしまった...)

 なお、ひでしさんの「当事者だけしか意見を言う権利はない」というご意見には反対させて下さい。私はこれを「当事者の論理」と呼んで、かつて生殖医療の議論の中で批判したことがあったのですが、この次に書きたいと思います。

 →News23 多事争論 1月12日(水) 「ヘンだよ」


特別付録 くば小児科ホームページ