■ ある事件に対する人権意識に欠けた地元新聞のコラムを問う(1998.03.19更新)


 昨年(1997年)の12月24日付で,地元新聞社のコラム担当者からお返事をいただきました.遅くなりましたが,ここにその全文を掲載します.これに対する私の意見もあるのですが,あくまで問題提起して考えていただきたいというのが今回の目的であり,追求したり指弾することが目的ではありませんので,これ以上は何も書かずまずはお読みいただければと思います.なお,このページに掲載することについては言及されてませんでしたが,掲載することを前提にして返事をいただきたいと最初にお断りしておきましたので,そのまま掲載させていただきました.

<目次>

  1. 問題提起(このページの本文)(1997.12.10掲載)
  2. 問題のコラムの全文(1997.12.7掲載)
  3. 参考資料:別の事件に対する他紙のコラム(1997.12.10掲載)
  4. コラム担当者からの返事(1998.01.07掲載)
  5. 当HPの掲示板における議論(途中まで)(1998.03.19掲載)
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 いつものように朝食を食べながら新聞に目を通していたら,市内でおきた悲惨な事件のことを書いた地元紙のコラムが目に留まった.読み進めていくうちに,これを書いた筆者に対する言い様のない不快感がつのった.こんな書き方が堂々とまかり通って良いものだろうか.これは地元では圧倒的なシェアを誇る新聞の一面のコラムなのだ.

 あるいは,特に気にせずに読み流した人も多いかもしれない.どこがどう問題なのか,おそらく書いた人も新聞社もわかっていないのだろう.なにしろ正いことを書いたつもりなのだから.これはきちんと指摘してあげなくてはいけない.どうしてだかわからないが,これは私がやる仕事なのだとすぐに理解できた.賭けてもいいが,他にそんなことをしようという人は八戸中探してもいやしない.正義感かと言われるとちょっと違う.説明し難いが,まあそんなことはどうでも良い.

 まずはそのコラムを読んでいただかないと話ができないのだが,多くの人は読んでいないか,読んだけれど忘れてしまったであろうから,資料として全文を引用しておく.

 問題のコラムの全文 (参考資料:別の事件に対する他紙のコラムの視点)

○ 不確かな情報をもとに推測でものを書く危険性

 簡単に指摘できるところから始めよう.この筆者は自分で「どのような事情があったのか詳しくはわからない」あるいは「軽々に判断することは危険だが」と言い訳をしておいて,逮捕直後に警察から伝えられた僅かな情報を元に推測を加え,断定的に母親をなじり,返す刀で父親を非難している.このような報道姿勢が松本サリン事件の時のみならず繰り返し問題にされているのをすっかり忘れてしまったのか,あるいは問題意識が元から抜け落ちているのか,その「お粗末さに驚く」のはこちらの方である.

○ 新聞は断罪することがその使命か

 ここで誤解を受けぬように一応書いておくが,私とてこの事件を聞いたときには寒空の下で亡くなった赤ちゃんことを想い,放置した母親への単純な憤りを感じたのは事実だ.これは別に小児科医としてでなく,一人の人間として.そして,そのように可哀想だ,ひどいと感じたのは殆ど全ての人に共通した感情であったことは想像に難くない.

 そこで問うが,そのような単純な正義感から紙面という半ば公にされた手段を用いて事件の被疑者であり同時に家族である人たちを断罪するということに,一体どのような意味があるのであろうか.読者の共感を得ることにより,このような悲惨な事件の再発を防ぐことができるとでも考えたのか.あるいは,読者のレベルを低く想定して,職場で仲間同士で話すときと同じ意識で読める内容を用意しただけの話なのか.事件の度に問題になるワイドショーの報道姿勢と,本質的に同じものに思えてならないのだが,これが一面のコラムという新聞の顔で主張しなくてはいけない内容なのか.

○ これは何も生み出さない

 ここで先に結論めいたことを書く.この一見正しくてどこにも破綻がなく倫理観と生命への慈悲に満ちあふれたコラムは,ちょっと読みなおしてみればこれは驚くほど弱者への配慮を欠き,人間の悲しみを理解できず,自分や読者を正義という安全な高みに立たたせて,過ちを犯したものを反論もさせずに裁く内容になっていることが理解できるはずだ.できればもう一度読み直して欲しい.

 この文章は決して何も解決しない.そして何も生み出さない.それは明白な事実だ.ただ何かコメントをしなくてはと思って正しいと思われることを書いてみただけのものだ.そういう意味では,もしかしたらわざわざ取り上げて問題にする程のものではないのかもしれない.しかし,あまりに読者を馬鹿にしたような説教じみた書き方が私の神経を逆撫でしたのだ.どうか悪く思わないで欲しい.

○ 個人や一つの家族だけの責任なのか

 この母親と父親がどのような家庭生活を営んでいたのか,私は全く知らない.あるいはこの筆者がなじるようなお粗末な性格で倫理観に乏しく,もし私のところに診察に来たら怒鳴りつけたり呆れて相手にしたくなくなるような人たちなのかもしれない.しかし,一歩引いてものを考えてみれば,個人の性格や家庭の問題が,全てその人の責任に帰するなどとは誰も考えまい.そんなことは分別のある大人であればすぐにわかることだ.

 あるいは,倫理観に欠けていたとして,そのような倫理感が培われた環境にも問題はなかったのか.あるいは私だってこれを読んでいるあなただって倫理観に欠けたところが全くないと言えるのであろうか.そもそも,全ての人にあまねく行き渡る正しい倫理なるものが存在するのだろうか.生命は尊い.誰も反論できない唯一の倫理に思える.しかし,それを破らざるを得ない状況は世の中に常に満ちあふれているではないか.自分の腹をいためて産んだわが子を,いい加減な気持ちで捨てる人がいるであろうか.どのような判断がはたらいたのか,あるいはまともな判断のできないような状況にあったのか私にはわからない.しかし,それを「身勝手な生き方」と簡単に決めつけたりすることは私にはとてもできない.

○ 視点を変えて考えること

 長くなってきたので,ここで核心へ移ることにする.この母親が逮捕されたときに,人々はどのように感じたのであろうか.ただ呆れてタメ息をついただけの人はさほど多くあるまい.神戸の事件でも,犯人がわかって単純に事件解決を喜んだ人はいなかった.皆一様に,どうして,何故そんなことが起きてしまったのかと自分のこととして考え,それはマスコミが犯人探しに狂奔しているときとは比べものにならないほど深刻なものであった.この事件も,表面的に読めば「お粗末な母親や倫理観の欠如した父親が引き起こしたむごい話」ということになるのかもしれないが,人々はそれだけを感じたわけではなかったはずだ.やり場のない悲しさ,何とかして避けられなかったのかというあたかも自分のもののような傷み,上手く書けないがそのようなものが必ずあったことと思う.これは決して他人の事件ではない.それをひと事のように語る人に対して,反感のようなものを感じたのは私一人だけであろうか.しかもこの事件では容疑者や父親は被害者の家族でもあるのだ.

 いったい生まれたばかりの新生児を寒空の下に放置することが良いことか悪いことか理解できない人がいるだろうか.「知らなかったはずはあるまい」と筆者も書いているように,この母親は知っていてやってしまったのである.胎盤とへその緒がついたままの生まれたばかりのわが子を(しかもこの母親は自宅で一人で産み落としたのだ),どのような気持ちで置いていったのか.それでも産婦人科の前に置いたということは殺すという意識はあまりなかったのかもしれない.愚かな判断であり弁護の余地はほとんどないが,それでも早くに発見されていたらどうだったかという気持ちを拭いきれない.助かっていても児童遺棄でおそらく育てることは許されないだろうが,それでも罪を償う可能性があればこの愚かな母親に償わせたかった.それができるのであればだが.

 いずれにせよ,私たちがすべきこと,あるいは子どもたちに教えるべきことは,良いことと悪いことの単純な区別をつけて人を裁くことではなく,視点を変えて考えて悪いと思われるものごとをどのように理解するか,理解できなくてもそのようなことが起こりうるのだということを理解できるようにすることではないのか.正しいことは誰しも簡単に理解できる.自分の中にも潜んでいるやもしれぬ邪悪なものを理解するのに人は一生を費やすのか.これは私にもわからない.

○ 家族や周囲に対する配慮はあったか

 最後に簡単に書くが,この家庭には2人の子どもがいるという.この子たちや家族への配慮がこの文章を書いている時点で僅かでもあったかどうか.ここに「第三子と聞くにおよんで再度タメ息が…」と書かれているが,どういう意味で書いたのかよく理解できない.上の子たちへの配慮のタメ息なら良いのだが,どうもそうではなく母親へのあきれかえったタメ息のように読める.2人も子どもがいながら生命の大切さがわからなかったのかという非難なのだろうか.もしそうなのであれば,できれば考え方をあらためて欲しい.そもそも「生活が苦しくて…」というのもそんなに言う程お粗末な動機なのか,そこもよく理解できない.単に私の理解力が不足しているだけなのかもしれないが,もし容疑者が本当にそう言ったとして(逮捕直後の警察発表だからそのまま信用してはいけないのだが),その言葉を上っ面だけで聞いて呆れていて良いのであろうか.私ならウーンと唸ってそれ以上は何も言えない.それが普通の感覚ではないのか.ここまで書いたが自分の感覚に絶対の自信があるわけではない.このように騒ぎ立てても誰も共感してくれないかもしれない.しかし,ここに書いたことはすべて私がそのように読んで感じたそのままの事実なのだ.

 短い時間で感じたことなのに文章にしようとすれば長くなる.夜も更けたしこのくらいでやめておこう.他紙やテレビのワイドショーにおける実名報道の問題もあるのだが,この新聞では実名は伏せられており,その点では配慮がなされているのでここで一緒に論ずる必要はなかろう.理路整然とまとめてどこに出しても恥ずかしくない文章にするつもりで書き始めたのだが,こちらも感情に流れて見苦しくなった部分もあるようだ.しかし,最初に書いたように,これはやはり指摘しておかないといけない事だと考えているので,このままの内容で編集長宛にFAXで流しておくことにする.ホームページも持たない新聞社なので,不便でいけない.

○ 書いて終わりではなく

 なお,これは今度は私の言い訳じみて聞こえるかもしれないが,この新聞社に対して悪意があってこのような問題提起をしているわけではない.どうしようもないと思えば無視すればいいだけの話だ.しかし,このコラムが常に地元の各方面に通じた造詣の深い話を掲載し続けており,また,この新聞社が地元社会で果たしている役割も大きく,他の地方ではあまり考えられないことなのだが,ほかに全国紙もとらずにこの地方紙だけを読んで育ち死ぬまでこれを読み続けていく人もいるという事を知っているだけに,時として感じる詰めの甘さやなれ合い的体質がどうしても気になってしまうのだ.また,そういったものを特に疑問に思わずに許容しているかもしれない人たちに対する小さな声でもあることを付して記しておく.

 この文章は自分では批評のつもりで書いているので,できればこれに対する反論なり回答をもらいたいと考えている.そして,許可が得られればここに続きとして掲載するつもりでいる.あるいは新聞紙上で回答してもらうのが一番なのだが,そこまでいけるかどうかは特に問題にしていない.だが,まともな新聞社であれば,記事に対する批判や抗議に対して真摯な姿勢で向き合うことができるはずだ.それが出来ないほどとは思いたくない.少し時間をかけて反応を待ちたい.

 また,この件に関するご意見やご感想はこのホームページの掲示板でもう少し続けたいと思いますので,どうか遠慮なく書き込んでいただきたい.書き込んだ人に迷惑がかかることは決してありませんので.

1997.12.10
くば小児科クリニック
久芳康朗

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◇天鐘 1997年(平成9年)12月5日(金) デーリー東北

 むごい話である.八戸市内の産婦人科医院に置き去りにされた新生児が,手当のかいなく死亡したという.へその緒と胎盤がついたままで,発見当時は生後数時間しかたっていなかったらしいと聞いて,背筋が寒くなった.

 どのような事情があったのか,詳しくはわからない.が,きのう八戸署に逮捕された二十四歳の母親は「生活が苦しくて…」などと話しているというから,動機のお粗末さに驚く.しかも,第三子と聞くにおよんで再度タメ息が漏れた.

 赤ちゃんは医院裏の職員通用口で発見,保護されたそうだが,当日の八戸市内は真冬日だった.死因は低体温によるショック死.セーターにバスタオルをまとっただけで厳寒の中に放置すればどうなるかぐらいは知らなかったはずはあるまい.

 母親が赤ちゃんを胸に抱き,乳房をふくませている光景はいいものだ.一昨日に死亡した男の赤ちゃんは,その恩恵に浴すことはできなかった.母乳はまだしも,母親のそばでゆったりとすることも許されなかったのだから,何をかいわんやであろう.

 母親を引き合いに出したが,この種の事件は父親の側に起因することもある.軽々に判断することは危険だが,子どもの父親ともなれば養育の責任が伴う.生命の尊さについてのモラルは男女等しく持つものであろう.

 もし,この子さえいなければ,と考えることは自由だ.が,それを実行に移すとなると話は変わる.親の身勝手な生き方の犠牲になったいたいけな乳児のことを思うとふびんでならぬ.

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◇天声人語 1997年(平成9年)12月9日(火) 朝日新聞

  どこか切なくなる事件である。千葉県で生後10カ月の男の子がベビーカーごといなくなり、15日後に無事見つかった。連れ去ったのは近くの女性(29)で、その母(48)も事情を知っていた。

 昼下がり、事件は起こった。赤ちゃんの母親(28)は、ベビーカーを押して繁華街の洋品店に入った。長女(2つ)も一緒だ。赤ちゃんは眠っていた。ベビーカーを1階階段のわきに置き、長女と2階の売り場に行った。のちに不用心だとの指摘も出たが、この店にエスカレーターなどはない。同じようにする人は少なくなかったそうだ。

 容疑者の女性は2階から下りてきた。赤ちゃんは目をさましていた。「お母さんはどうしたの」と声をかけたら、ニコッと笑って手足を動かした。思わず抱き上げ連れて帰った、という。地下鉄一本で東京とつながっている街だ。住んで日の浅い若い層の住民が多く、赤ん坊連れの母親は珍しくない。容疑者はその中に紛れた。

 警察はインターネットまで使って情報提供を求めるなど、力を尽くした。結局、見つけたのは父親(31)だった。街で、抱かれていた赤ちゃんの後ろ姿を見てわかった。「顔を見て100パーセント確信した。実の父親だから間違えようがない」。女性はしばらく「私の子です」と言い張った。

 女性の母親が住むマンションのベランダには、ベビー服が何着も干されていた。本人は去年離婚し、子どもは相手が引き取った。ことし6月に流産、過去にも何回か流産し、医師に「産まないように」と言われていたらしい。神経も細くなっていたようだ。母親は「幸せそうな娘を見て、そっとしておこうと思った」という。

 逮捕された母娘に弁明の余地はない。ただ、哀れではある。人間のさびしさ、やりきれなさが漂う。しかし、赤ちゃんの父のことばに救われる。「生きていてくれてありがとう」と彼は言ったのだ。

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拝啓 率直かつ有意義なご意見ありがとうございました.眼光紙背に徹するまでにお読みいただき,只々恐縮いたしております.一読,再読,精読させていただきました.貴兄のご質問に対する答えが順不同,あるいは言葉足らずになるやもしれませんが,まずは一般論から書きすすめてみたいと存じます.

 正直いって,読者からの反響は多様です.今回の事件に限らず,書いたことに賛成もあれば反対もあります.同時に好きもあれば嫌いもあり,当然それでいいと思っております.それは一人一人の生き方にも似ています.違った受け止め方があってこそ,健全な社会といえましょう.言葉を変えていえば,読者は書いた側の文章に対し,自分の考えを確認(賛否を含め)していくものだと思います.

 さて,長文でございましたが,貴兄の論旨は「読者をばかにしたような説教じみた書き方が私の神経を逆撫でした」という点にあり,それは「人権意識に欠け事件の背後にある人間への洞察も配慮もないからだ」という意味に理解しました.

 結果として無機質な文章であったことは否めません.そこに温もりの無さや,行間に何か引っかかるものを感じられたとすれば,すべて小生の駄文のなせるわざであり,返す言葉もありません.一般論に終始しましたので,何か役に立つものでもありません(必ずしもそうでなければいけないとも思いませんが).

 が,はっきり言えることは,罪を憎んだのであり,人を憎んだのではないということです.従って,母親を指弾しようとか,貴兄のいう「断罪」する意味で書いたつもりはございません」.断罪とは罪を裁く(原文ではひらがなで「さばく」)ことですから,役目が違います.まして,そのような立場にあるとも考えておりません.

 「返す刀で父親を非難し…」との指摘もありましたが,それとて同じです.過去の歴史が示す多くの事例のことをいったまでのことでした.それは「この種の事件は…」と書いてあることでもおわかりいただけるものと思います.

 「第三子と聞くにおよんで再度タメ息が…」の意味については,上の二人の子に思いをはせたものとお考え下さい.松本サリン事件とからめて人権の在り方を問われましたが,今回の事件とは背景(逮捕以前の犯人捜し)が異なります.朝日新聞のコラムとの比較も別物と思います.

 高説を垂れるつもりはありませんが,人命が何より尊重されるべきものであることは言を待たないと思います.現実に一人の小さな命が,身近な場所で失われたのです.抵抗力のないものに対する身勝手な行為は,してはいけない,あってはならないことでもありましょう.

 ただ,そうはいっても犯罪は法の正当な手続きを踏んで処理されるものですから,何を書いてもいいわけではありませんし,真偽おかまいなしに書いて許されるものでもありません.かかる点に留意し言葉を選んだつもりでしたが,結果として筆先を散らしただけの文章になってしまったことを自戒しております.

 その上で考えさせられることもありました.読者とともにものを考えるという姿勢です.どうしてこうなったのだろう,という視点の設定と言っていいかもしれません.そのへんを書き込んでいれば,貴兄の「これでは何も生まれない」という指摘も,あるいは柔らいだのかもしれません.

 いずれにしましても,貴重なご意見でした.あらためて本欄を書くことの責任の重大さをに思いをはせておりますが,ご指摘の諸点をしっかりと胸に刻みつつ,今後の参考にさせていただきたいと思います.

敬具

デーリー東北新聞社
論説委員会
林 剛史

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特別付録 くば小児科ホームページ