JavaScript(あるいはスクリプト)がオフになっているか、お使いのブラウザがJavaScriptに対応していないかも知れません。
この掲示板を使用するには、JavaScriptを有効にしてからお使い下さい。
[
新規発言
|
タイトル
|
ダイジェスト
|
スレッド
|
検索
]
[
ホームページ
]
くば小児科BBS
「公僕と労働者。」
2001.8.20/22時24分/No.20 Marさんから
学校の先生というのは労働者だろうか?
これが私の最近の疑問である。教員は公僕であり、聖職であるべきで、
故に親や社会地域から認め、尊敬され、子供達はその教えを受ける時、
否定や破壊をすることなく受け入れる状況になるのではないかと思う。
しかし、大学生活を経て感じるのは、先生になるのは現状では、
社会不適合者や、会社生活に入ることの出来ない輩も少なくない。
特に非道いのは、採用後の活動で良くわかるが、子供の教育云々よりも
我が身第一の組合での活動に熱心な者達で有ることは言わずもがなである。
教員に関しては、私は給料を大幅に上げ、
(少なくとも採用時で民間の1.2倍〜1.5倍・35歳賃金で2倍程度)
教職の待遇面でのプレミアをつけ、良い人材を求めるべきである。
そのかわり、組合活動の廃止・自宅待機型出勤拒否者
(通常の会社ではクビになる人達)の廃職を促すべきである。
バブル期に就職先の関係上(銀行&証券)文系卒業が増え、その結果
お馬鹿と言われていた大学の偏差値が急上昇した事を考えれば、良い。
自我を捨て、働く者にはそれ相当にみんながもり立てるべきである。
しかし、日本人として、日本に対して愛着や尊敬を持っていない人間が、この日本社会を作り出そうとする人材に対して教育は出来るのだろうか?
それが私の疑問でもある。教育者は労働者ではない。
教育というものは労働ではなく、国(未来の子供達)への愛情の上
初めて成り立つ物ではないでしょうか?
同様に公務員もいえる。
2001.8.21/21時29分/No.21 くばさんから
どうも今回のご意見は「偏りすぎ」と思われますので、私としてはコメントを控えさせていただきます。
最近読んだ本、村上龍『「教育の崩壊」という嘘』、河上亮一『教育改革国民会議で何が論じられたか』が参考になりますのでご覧下さい。前者でも河上氏と村上氏の対談があります。
ゆとり教育や教科書問題でも共通して言えることは、学校幻想、教師が悪いから子どもが悪くなる、教科書を変えれば子どもは良くなる、いずれも全くエビデンスのない机上の空論です。「つくる会」のエキセントリックな面々が、いくら文字面で愛国心を植えつけようとしても、子どもはそんなもんで価値観を形成するわけではありません。屁とも思わないでしょう(最近言葉遣いが悪いので気にしないでください)。問題の本質を全く理解できないので、自分の理解できる文脈でしか語れない(だから愛国心!)。子どもの抱えている問題は、そんなもんじゃないしそんなもんでは解決しない。
通販生活の最新号にも、ゆとり教育に関する6人の意見が掲載されていて面白く読めました。(次に紹介します)
2001.8.21/23時35分/No.22 Marさんから
「偏り」に思われたのなら、其れは心外ですが、この度の話は、クラス会を経て思ったことです。
十数年ぶりに合う仲間や先生方に接して話していて、
そのなかで、ある先生が、下記のようなことを言ってきた。
「君たちの時代は親も地域も協力的で、僕たち教職員を信頼して任せてくれた。
多少の暴力的や押しつけな指導もあったかもしれない、しかし、君たちはとても子供らしく、面白いときは、面白い、詰まらないときには詰まらないと、荒々しく、子供らしく、反応をしこちらが真剣に向きあわなければ、成らないほど素晴らしかった。
その後、街中の学校に移動したが、どこか拗ねて、おとなしく子供らしい子はなかった」
そこで話したのは当時、親世代の最終学歴は殆どが、高卒で中卒の親も沢山いた。
どこか先生という職業に居る人達は、頭の良く、品行方正な人達であると、信じて、子供達を任せてくれていた。
しかし、今は違う。
まぁ青森ではそれ程大学進学率は高くは無いが、殆どの子供達が、それなりの学歴を持つようになった。
その結果、教員免許と言う物が、今や自動車免許以下の存在で、誰でも望めば大学を卒業と同時にもらえるようになった。事を判る者が増えた。
そして、「でも・しか」先生の存在。「ヒトラー」と叫ぶ日教組先生。
等々、様々話して以前からあった、先生と言う者は何者なのか?この疑問。
先生を先生とあがめ、敬い従う事は出来ないのか?
いわゆる先生の復権ですね。これを行うことは出来ないのか?と言うことです。
くばさんが言うとおり、いくら教科書を変えても子供達は社会は良くは成らないでしょう。
(しかし、イデオロギー色の強い教科書は淘汰され、真ん中に落ち着きましたが)先生もしかりです。
でも何もしなければ、どうにも成らないでしょう。
どこかのフレーズではありませんが、「暗いと不平を・・・」言っているだけでは何も変わらないと最近特に思うのです。
教える方が、働きかける者が、志の低い者では、それは教えられる子供達に良いわけはない。
悪循環に思えるのです。親も尊敬しない、信頼しない。其れを感じる子供達も同様。
これでは教える方もモチベーションは下がるでしょう。そして、其れが繰り返され、落ちるところまで落ちているだけではないでしょうか?
「国」や「日本」と言えば、偏狭や軍国主義復活や全体主義と最近の先進的な自称「知識層」やマスコミを始め言い始めますが、本当にそうなのでしょうか。
私は日本人ですし、他の国籍を持っていない。我が子を含む子供達は日本人である以上
殆どが日本で生きて行かなくては成らない。だから、日本の事を心配します。
様々な外国に出たり、様々な国の人と接して、日本のありがたさを感じ、誇りに思えます。
しかし、今の日本にいる人達はその事をどれだけの人が感じ、
自分の親や社会に感謝しているのでしょうか。
それとも、そんなことは、感謝もしなければ、還元もしなくても良いのでしょうか。
だとしたら、今の日本はなるべくして、なり、今より良くなることはないでしょうね。
2001.8.24/18時1分/No.23 くばさんから
教育問題が難しいのは、子ども、親、社会、学校、教師、教育システム、いろんなものがごっちゃになって語られがちだからだと思います。
前述の河上氏が言うように、学校で起きている問題は社会の問題そのものなので、社会が変わり親が変わり子どもが変わり、もちろん教師も変わっていかないと学校は良くならない。
教師だけをとりあげても、あまり意味はないだろうと思います。大卒の教師は、若者の一部であり、医師もしかり、企業戦士も同じでしょう。教師は普通の若者、普通のおじさんおばさんであるという現状認識からスタートしないと、精神論になりかねないのでは。
教育改革国民会議報告 −教育を変える17の提案−
2001.8.24/23時49分/No.24 Marさんから
ふつうのおじさん若者はふつうのおじさん若者と「市民」としての括りでしょう。 しかし、教育を生業としている以上、ふつうや、一般では不味いのです。金を貰っている以上、「ふつうの○○」と言うことでは有っては駄目だと思うのです。
各人がその仕事を生業としている以上、各人のアウトプットはそれに応じた物でなければならないと思うのです。
昔の歌では無いのですが、
「♪誰のせいでもありゃしない〜」なのです。
少なくとも中学生以上に対してはそういえるはずです。
小学校に入るまでは、親を中心とする地域コミュニティ。
小学校入学からは教師と親そして地域コミュニティ。
が日本人としての一般常識・モラル・国民性・公共心を構築して行くべきでしょう。
少なくとも、卵・鶏ではないが、誰が悪いと擦り合いをするべきではなく、金を貰っているその道のプロが甘えること無きように、しなければならないと思うのです。
トレーサビリティではないのですが、そのこの尺度を測るにはその環境(親・学校・地域)の尺度、その親を計るにはその環境(親・学校・地域)と見ていかなければならないのは間違いないのですが、しかし原因追及をしたとしても、何ら解決にならず、そんな無意味なこと責任の擦り合いよりも問題提起と、改善を逐次行い積み重ねていかなければ、なにもならないでしょう。
大河も一滴から。そう思い実践していかなければならないのです。
2001.8.26/21時21分/No.25 くばさんから
何でそんなにカリカリしてるんですか?
自分は評論家の立場にいて(どうして?)教師を悪者にするようなことを書いても、共感は得られませんよ。聖職者とか公僕といった言葉を振りかざしても、前進しません。
2001.8.27/0時7分/No.26 Marさんから
すみません。
どの辺がカリカリしているのでしょうか?
どの辺が偏っているのでしょうか?
その文脈はどの辺で読みとれるのでしょうか?
生業としての公立の教職は公僕であり、教え導く立場である以上、
慎重であるべきで、聖職者として模範となるべき、気概を持つべきでしょう?
その辺のどこが、教師を悪者にしているところがあるのでしょうか。
これから、学校教育に子供達を送る親として、案ずる物ではありませんか?
2001.8.27/15時25分/No.27 大江ちゃんさんから
現場の先生を批判するつもりは有りませんが、
確かに教える側の質の低下は、かなり目立ってきていますね。
県では近々予算を取って、現場の教員を再教育する目的で、大学で専門分野教育をさせていく方針のようです。つまり指導力不足と判断された先生が、現場から一時的に離れて高度知識の習得を図り、基礎教育の強化に乗り出す予定です。(まぁ、企画そのものが遅すぎますが....)
でも、根本的な問題は教師の質ではなく、家庭でのしつけが原因だと思われます。「自由」の意味が解っていない。「自由」=「我儘」の構図が出来上がっているため、親への啓蒙活動が最優先課題のような気がします。
2001.8.27/15時41分/No.28 大江ちゃんさんから
幼児期に行われる「しつけ」が、現在と昔では異なっているのでしょう。幼児期に厳しく育てられると、ADHAになりやすいと言う論文を書いている研究者もいますが、私はこの論にADHAとの因果関係を見いだすのは根拠が希薄すぎる気がします。
「厳しい躾」と「虐待」との線引きが問題でもあり、悪いことをしても罪悪感を持たない子供、また、子供の叱り方に加減を知らない親など.....甘やかされて育った親ほど、子育てもルーズなような気がします。(私の目にする範囲では)
ADHAもそうですが、症状をカテゴリー化するあまり、言葉だけが一人歩きをしているのも現状です。昔はそんな言葉すらなかったし、そのようなケース報告も目立たなかった。一体、いつからこうなったのでしょう?
(昔の話題を出すようになった私も、歳を取った証拠かな....)
2001.8.28/15時52分/No.29 くばさんから
私が言いたいのは、これはシステムの問題であること。
それも学校だけのシステムではなく、社会全体の。
しつけの問題もしかり。親に問題があるのは、その親(祖父母)のしつけが悪いからとなる。結局解決しない(しつけについては最近論文をまとめて当ページにも掲載しましたので参考にして下さい−結論はないという結論なのですが)。
先生はかつてと比べると小粒化していたり色々ありますが、それは先生だけの問題ではありません。全体としてみれば、勉強もしているし仕事の量も気の毒なほどあります。部活に拘束されるのもひどい話です。
前述の国民会議でも教師の問題も論議されていますし、期待されるべきプロフェッションとしての役割を果たすのは当然です。しかし、それを聖職とか公僕といった言葉で表現するのは、間違いだと思います。というか、間違いの元です。普通のオジサンが、プロの教師なのです。
誰が「ヒトラー」と叫んだんですか? いい加減なことは書かないでください。
しつけをめぐる諸問題
2001.8.28/16時9分/No.30 くばさんから
小児科医がしつけの問題を云々するのはおかしな話ですが、そういった需要がある時代なのですね。父性の欠如、過保護・過干渉と耐性の欠如、虐待されて育った親が虐待をくり返す連鎖、子育て神話の崩壊。では、それからどうするか。
ご指摘のように、学校の問題は学校に入る前の問題なわけですから、乳幼児期の子育て(親への子育て支援)に「この国の命運がかかっている」。さてと。
2001.8.28/20時58分/No.33 Marさんから
しつけ。躾。
親の躾。ゴミを平気で投げる親。障害者向け駐車場に平気に止める主婦。たばこを歩きながらすって、棄てる父親。自由と躾を間違える親。
自分の楽しみならば、子供を殺せる親。式典を壊すビデオおしゃべり親。
そんな親。
いったいこれを誰が躾するのか。やはり地域で矯正するしかないのかもしれません。自分はどうか。それらを見て見ぬ振りをするのか。と言えば、7:3でしか注意出来ないでいる。
何故10:0になら無いのか。やはりタイミングだろう。相手のプライドを傷つけない注意。
非常に難しい。でも、子供の前では、必ず注意をしてしまう。
自分や家族がモラルを守ればいいと言う考えで、かみさんは非常に嫌らしい。
確かに昨今は詰めてと言われて刺される世の中ですし、判るような気がします。
当たらず騒がず。それで良いのか?
少なくとも、悪奴・駄目な奴はいる。
でも子供達にその様な姿を晒したままにすることは、其れは不味いのではと思わせる。
子供に厳しく躾をしているわけでは無いが、他の人からは厳しいと指摘を受ける。
夫婦で話した基本事項だけは守と言うことで、それ以外は野放しである。
1.挨拶が出来る。
2.物を粗末にしない。(食べ物を含む)
3.約束は守るうそは付かない。(出来ない約束はしない)
4.公共の場所では騒がない・汚さない。
5.上(親・年寄り)敬いを下の子(弱い子)を守る。
6.出来る限り薬を用いず、体力の付く体育を行う。
以上が基本方針。親が守らせる以上、親も遂行をしなければならない。
みなさんは基本方針を持って躾をしていますか?
それともなぁなぁでしょうか。
自分の家に遊びに来た子供の友達をしかれますか?
一人一人が道徳的な事を心がけ、生活していけば少なくとも
自分の周りは悪くなることは無いような気がします。
さて、質問にお答えいたします。
いい加減ではありません。有名な話です。あなたが知らないだけです。
知らないことは良いことです。知る機会が生まれるのですから。
さて、誰が言っているのか住所氏名は特定できませんが、日教組の集会でのことですので、日教組に加入できる資格のある人=教員ではないですか?
http://www.jtu-net.or.jp/kiji/kyoken/2n9.htm
日教組教研集会で、来賓の東京都教育長に会場からやじが飛びました。「ヒトラー」に始まり、最後は「帰れ」の合唱。成人式での混乱とだぶらせた報道もありましたが、主張の有無という点で両者は同じではないでしょう。行政と教育現場の間に、信頼関係がないとの印象を強く持ちました。分科会では発言時間が制限されていました。司会者の制止にもかかわらず発言を続ける教師も多く、先生の言うことを聞かないのは子供だけではないと再確認しました。(K)
2001.8.28/21時32分/No.34 大江ちゃんさんから
>Marさん
貴方のおっしゃる趣旨は、私も100%同じとは申しませんが、
同じように感じています。
特に、
>1.挨拶が出来る。
>2.物を粗末にしない。(食べ物を含む)
>3.約束は守るうそは付かない。(出来ない約束はしない)
>4.公共の場所では騒がない・汚さない。
>5.上(親・年寄り)敬いを下の子(弱い子)を守る。
>6.出来る限り薬を用いず、体力の付く体育を行う。
上記の点は、最低限の社会的マナーのようなもので
それこそ「公共の福祉」に合致した内容ですね。改めて感動します。
我が母校の綱領に、
一.須く自重すべし。
一.ただ本文に向かって猛進せよ。
一.師を啓し、友を愛せよ。
というものがありました。(うぅ、まだ覚えていた)
これも同じく、社会生活の基本概念の表れだった気がします。
ただ、社会問題を解決するのに、貴方の結論は性急すぎると私は思います。結論を急ぐのは思わぬミスを気づかずに、新たな社会問題を起しかねないと思うからです。
2001.9.13/21時59分/No.50 Marさんから
お久しぶりです。
大江様
お返事遅くなり申し訳有りません。
確かに私の意見は性急な気がします。
しかし、根腐れをみて、放置するほど、余裕はないような気がしたのです。出来るところから手を着ける。気が付いた人から発言する。
性急は多分もまれ、良いところで落ち着くと思っています。
建前、きれい事ですまない事が多すぎるのです。
昔の自分らの先輩が行ってきたことを認識することなく、この豊かで安全な社会生活に呆けながら、自分らのことは棚に上げ、過去の事をいくらほじくり返して見たところで、何も建設的にな事はない。
むしろ、悪しき行為を認め、辞め次への世代へ何かを送り出すのが先でしょう。
私の持論に、「他人の意見に対し、批判だけなら無責任に馬鹿でも誰でも出来る。肯定は勇気と責任がいる。発展させるには知恵と技術が要る。」と言うことがあります。
どんな意見でもその意見には光があるのです。
もちろんその裏には影があります。
でも光を光と見ず、影とばかり言っていては、まるで子供です。
大人の責任。
それらを感じる事が、大人としての最初の仕事です。
全体主義に成りつつある今の日本社会。
それらに見切りを付け、自分の責任を感じることの出来る大人が増えることが先決に感じます。
追伸
教員の友人に聞いたら、兵庫県の様な教員は山ほどいる。との事。
それでもクビには成らない。何故か?校長の監督不行き届きを畏れているからだとの事。民間ならすぐさまクビなのに。
見本は大人。
子は親の鏡。みんな忘れているのですかねぇ。見られていることを。
2001.9.14/19時5分/No.52 佐々木さんから
はじめまして。
>Marさん
わたしも大江さんのように100%賛成とは思いませんが、Marさんに賛同するところがあります。「子は親の鏡」わたしも歪みのない鏡にならなければと思います。ところでくばさんはあれだけ「いいかげんなこと書かないように」と糾弾しておきなががら、説明を受けても無視とはがっかりです。
>くばさん
先生だけではなくどんな仕事でもみんな大変でしょう。だからと言って言い訳にはなりませんよ。
2001.9.15/14時49分/No.56 くばさんから
説明されたというのは、元の文脈の中での使われ方とは全く違ったものであり、また、議論を続けるかそれに値しないかは、こちらで判断させていただいております(それほど暇人ではありませんので)。どなたにも同じようにそうする権利があり、もし議論を続けたい場合は私抜きでお続けいただいても構いません。これは、一般的なルールですのでとやかく言われる筋合いはありません。
2001.9.16/11時29分/No.65 Marさんから
佐々木さんへ
まとめて話しますと、知らないものはしょうがないです。
大事なのは知った後の自分の行動です。
教員の質の問題で、提示した先の日教組の集会において露呈した教員の質の低下ぶりを
「ヒトラー叫ぶ先生」(この辺は私の言葉足らずですね・ネオナチに勘違いされたのかな?)
と提示したら、「そんないい加減な事を書くべきではない」と提示されましたので、
「ではその証拠に…………と先の証拠」を挙げた次第です。
そういう流れで、やはり都合が悪かったり、
間違いを認めざる得ない状況になったとき、
なかなか其れを認めにくいのではないですかね。
だから、私は何も言いませんでしたよそれ以上はね。
大人なんですからそう考えるべきではないでしょうか。
でもこれはしょうがないのです。マスコミのおかげと言いますか、
まぁ通常新聞なんて、1社だけであるしその新聞の論調に支配されるだろうし、
沢山知らないことはあってしかるべきでしょう。
教員の質の低下は昨今の事件を見てしかるべきで、誰もそのことは否定できない。
(教員だけではありませんが、黙認している感が伺えます。)
日本の大人の責任は沢山有りますが、
日本文化で培われた道徳に反する行為や公的な秩序が乱された時には、
責任を持って、積極的に声を発するべきではなのでしょうか?
その声が性急すぎたり、偏っていたり間違っている場合は、
周りがもみきちんとした方向へ行くように感じます。
少なくとも、46協定などとばかげた自分の利得のみにあぐらをかき、
子供達にイデオロギーを刷り込み、教科書問題では全体主義やファシズムのような
意見の統制及び、選択委員の私生活破壊をするような世の中を作り出している
間違った公僕とは言えない教員やその支援団体に対して、子供を育てる親として、
疑問を投げかけなければ成らないように感じます。
その疑問を持つこと自体を否定すると言うことは、
子供達へ責任を放棄していると思うのです。
2001.9.16/23時4分/No.69 くばさんから
>子供達にイデオロギーを刷り込み、教科書問題では全体主義や
>ファシズムのような
このスレッドもここまでにしますね。。
一つのことを知っていたとかそういう問題ではなく、全体の議論を続ける価値があるかどうかと言っているので、上記のような極論は何の益にもなりません。どうやら教科書の採用問題のことを言っているようですが、「つくる会」とその支持政治家がどのような運動を行ってきたのか、汚いことだらけです。この状況は、まともな教育に関する議論とはとても言えません(どちらかというと全体主義に近い人がリベラリストを全体主義者と批判するという詭弁)。心の貧しさの問題を言っているのです。
しかし、国民の大半は、まともです。こどもたちも、このような状況であれ、大丈夫なんです。問題は大人の社会です。つくる会の教科書を他の教科書と対比させて教育に用いるという試みがあります。子どもは、ちゃんと判断できます。
現状は、大正デモクラシーから昭和の暗い時代に向かっていった頃に言論も社会も経済も非常に似通ってきたというのが多くの人の指摘するところで、私も同感です。言論の自由があるではないかと言われるかもしれませんが、このような場でさえ、書くことが非常にはばかられる雰囲気があります。
2001.9.18/19時41分/No.74 佐々木さんから
公僕と労働者の議論の流れを見てみます。
1.教員の質に対する問題提起と改善案の考察。
2.1.の意見には偏りがある。教員が悪いから子供が悪くなるというのは所詮机上の空論で解決はない。
3.体験談と、現在の教員の事実レベル提示。誰かがやらなければ駄目という提案意味の説明。
4.教育問題の難しさにおいて、教師だけを取り上げる意味の疑問。教師も一般人なのだから仕方がない。
5.職業での甘えは駄目。原因追求と責任の擦り合いは無駄。改善の積み重ねが優先である。
6.メンタル攻撃?(カリカリしている)教師を悪者にするべきではない。
7.カリカリと偏りの回答希望。悪者と決め付けている6.への根拠の提示希望。
8.教員の低下の追認識。行政の対策の提示。家庭のしつけと自由の関係。親への啓蒙活動の問題提起。
9.しつけの現在過去の比較提示。安易なADHAへの責任転嫁への問題提起。
10.子供たちをはじめとする躾の問題は社会システムの問題で先生の問題ではない。3.への質問と断罪。
11.父性への問いかけと現代社会における子育て問題の羅列。乳幼児子育ての重要性の同調。
12.現在親におけるモラル欠如の現状。自分の躾に対する考察。子育て基本方針を持つことへの問いかけ。
13.子育て基本方針への同調(自分の経験を含む)問題解決の性急さへの警鐘。
14.性急さの意味の説明。大人の責任の考え方。民間と教員社会への違和感の提示。
15.大人の責任の意見賛同。本件における流れの感想。仕事における言い訳の否定。
16.質問と回答の相違。議論に値しない議論の位置付けと拒否。他人からの意見の拒否。
17.問題の修正と誤りを認めることの難しさ。教員問題から発する大人の責任と問題意識の提案。
18.極論(問題事実を提示した問いかけに対する決め付け)による議論からの逃避。つくる会への批判。心の貧しさの問題提起。つくる会の問題教科書を対比教材に用いる報告。現代社会の雰囲気の感想。
という感じでしょうか。皆さんはこの流れどう思います?事実を述べて問題提起。事実は見ない、代案のない批判。平行線ですかね。非常に重要な子供に対してのことなのにと思い残念です。
自分のお気に入りの意見しか駄目なのかな。それもいいですね。
2001.9.18/21時37分/No.75 くばさんから
佐々木さんは何か勘違いされているのかもしれません。ネット上では時として不毛な議論が続くことがありますが、議論を管理することと、議論の結論を管理することとは違います。この場合は、もちろん結論を出すつもりはなく、すぐに結論が出る問題でもありません。
しかし、管理人としての所感は一番最初に書いたことが全てで、こういった難しい問題にはバランス感覚を欠いた一方的な議論は現実には意味を持たないということです。
既に教育に関する議論は教育改革国民会議だけでなく各所でなされており、それらを踏まえて専門家だけでなく全ての国民が自らの問題として考えるべきですが、全ての議論を理解した上で議論するのが難しいことも確かです。教育に関する議論を拒否するわけではありませんが、このスレッドはここで終わらせていただきますので続けないで下さい。こういう管理の仕方に皆さん慣れていないのかもしれませんが、インターネット普及前のパソコン通信では必ず行わていることですのでご理解ください。Yahoo!のような管理人のいない会議室とは違うというのはそういう意味です。
2001.9.18/21時52分/No.76 くばさんから
なお、別のところに書きましたように、ご自分の信念を他の方に開示したい場合にはホームページを開設されることをお勧めします。
コメント用フォーム
*印の欄は必ず入力して下さい。
コメント者の名前
*
コメントの内容
*
参照ページの名前
参照ページのURL
[
送信
]