地域主権全国フォーラム in 八戸 II 報告書
一人ひとりの主権へ
有谷 昭男(八戸コミュニティボード 会長)
9年ぶりに再び八戸で地方主権フォーラム。
この自らの地域の自治についてフォーラムする機会を得たことに、全国の多くの方々、地元の各界、各社、市民の皆様に対し、心からのお礼と感謝を申し上げます。
省みればこの10年、なんとめまぐるしい年月だったろうか。先の見えない混とん社会に一条の光を見つけて、取り組んだ八戸のテーマは、“自ら行動するしか道はない”であった。激動の年月の中で、大切なのは身の丈にあった地方自治。地に足のついた住民自治の目線。
民間企業の経営手法。住民との協働による地域経営。そしてそれを現実の行動に移すこと。今回のフォーラムは正にそのことを確信する内容であった。
オンリーワンを目指す首長、そして地域リーダー、議員、職員の事例報告は、参加者を強く感動させるものであった。
普通の暮らしをしている市民が、自治体の一員として共に考え理解し、行動への志を持つこと。一人ひとりが主権、自立を確信するならば、未来は明るい。
会場の天聖寺は江戸時代の思想家安藤昌益ゆかりの寺で、“寺子屋”そのものである。今回のフォーラムも300年の歴史を越えて開かれた寺子屋であった。主催の八戸コミュニティボードはこれまでの形式をこわし、新時代の情報共有を図った。自然な流れで運営させていただいたが、果たして参加者にどう映ったであろうか。
地域コミュニティの復権が強く叫ばれて久しい今日、消えることのない新たなランナーたちが、“八戸からのメッセージ!”をかみしめ、論じてほしいと思う。それが小さな地域からブロック圏への階段ではないだろうか。この報告書がその一助になって頂ければ幸いである。
オープニング
柾谷 伸夫 氏(劇団やませ 代表)
安藤昌益について、桜木町白山神社宮司の高橋大和守との会話形式で表現して頂いた。この話は、高橋大和守が昌益と相前後して八戸を出奔する間際の思い出話で50分ほどの芝居であるが、会場が天聖寺であることから、その中から天聖寺に関わる部分だけを抜粋して“会話の実演”をして頂いた。
昌益は、「秦の始皇帝は名君であるが、自然の輪廻を見くびった点において暴君である。今の八戸、今の日本は自然の輪廻、人間の輪廻が全く無視されている。同じ人間なのに飢渇になれば米、ヒエ、粟を作っている百姓方が真っ先に死んでしまう。これはおかしい」と言っていた。大和守たちは月に何回か天聖寺や神山宅、白山神社に集まって昌益の話を聞いている。昌益は、「天聖寺の主祭様とはどんな話をしたのか分からないが、日本の堕落は仏法が伝来したためだ」と言ってさんざん仏教をこき下ろすので、大和守は、これは言い過ぎだと思ったものである。主祭様も人が出来ていたから、こんなことなどもいろいろ話し合っていたようだ。商人が集まっていても商人の批判をして怒らせたり、自分のこと、医者のことも批判するし、家康公を諸悪の根元とも言った。…というのがあらすじである。
柾谷氏は、「天聖寺には全国から弟子達が集まったのだが、今、同じくこうして全国から皆さんが集まって昌益思想についてのまとめをしている訳で、やはり、天聖寺は昌益思想の中心となった場所と言えよう。昌益は八戸の“赤ひげさん”だったのだと思う。来年は昌益生誕300年、私も大館で一人芝居をやることになっている。新幹線が通り、八戸が変わろうとしている今、もう一度八戸の原点ともいえる、安藤昌益を見つめ直してもいいのではないだろうか」と結んだ
当日は図らずも、昌益直系の子孫の方もはるばる秋田県から参加されましたので、恐らくこの“実演”で参加者は、300年前にタイムスリップされたことでしょう。
天聖寺住職挨拶
棟方 昌龍 氏(第23世天聖寺住職)
最初は気軽に会場の使用を承諾したが、催しの話を聞いている内に大変な大会だということが分かってきた。
安藤昌益大先生が八戸に15年住み、ここに来ていろいろな説を説き、守成八代目・九代目の二代にわたり親交があったと伝えられている。私もその影響か、生きた仏教をしたく、寺を開放しております。また、葬祭場、本堂を作った際に法霊神社の御神楽でお祓いをしてもらったし、鮫の墓獅子もやってもらった。疑問視する方もおられた様だが、神道も仏教も、同じ人間の為のもの、葬式で魚を上げる上げないはおかしい。みんな一緒でいいではないか。その上で使い分ければいいことだ、というのが私の持論です。
今、こういうかたちで全国的な大会を催すことは非常に意義のあることであり、私としても光栄なことであると思う。また、昨日、大館の方から二十数名お出でになり、昌益直系の子孫の方に初めてお会いしたが、本日こちらにお見えになっている(会場に紹介:拍手)。お孫さんに昌益と名付けたそうです。ご夫妻もこんなかたちで全国的催しに紹介されるなど思いも寄らなかったとのこと。あらためて因縁を知らされた今日の佳き日を大事にしたいと思う。ありがとうございます。
来賓挨拶
中村 寿文 氏(八戸市長)
本日は、全国各地より遠路ようこそおいでいただきました。心から歓迎申し上げます。
八戸市は、優れたみなとと後背地を擁する北東北随一の工業都市、全国屈指の水産都市であり、多くの国際航路を有する北東北の国際貿易都市です。また、是川を始めとする多くの縄文遺跡があり、800年の歴史をも無形民俗文化財「えんぶり」や日本一の山車祭り「八戸三社大祭」など、八戸南部藩二万石の歴史と伝統に育まれたまちです。
さて、地方分権一括法以来、地方分権の時代といわれ、国・県と市町村との新たな関係について模索が続けられ、一方で、市町合併などの地方再編の動きが活発化し、地域の将来をどのようにしていくのかといったまちづくりに対する関心が市民の間でも高まってきています。これからの時代は、住民自らが地域の将来をデザインしていく時代であり、市民と行政が互いに知恵を出し合う、いわゆる「協働のまちづくり」が求められており、「住んでよかった住んでみたい、魅力あるまち八戸」をめざし、市民とともに全力で取り組んでいます。
こうした中、八戸市が誇る世界的思想家・安藤昌益ゆかりの地、ここ天聖寺において、地方主権全国フォーラムを開催することは、大変意義深いものがあります。昌益の思想の一つ、自ら耕すという「直耕」の概念は、地方自治に置き換えれば、まさに、自らの手で自らのまちを耕す、地方主権さらには住民自治という考え方に繋がるものと考えております。
本日は、多くの先進的な事例などを通して、八戸の地から全国に向けて、地方主権の時代の新たな風を起こし、ひとりひとりの「行動へ」とつなげていただきたいと思います。
講演 第1部
「検証 土光臨調から小泉改革まで」
並河 信乃 氏(行革国民会議 事務局長)
行政改革といえば機構改革、公務員の削減、役所の合理化・効率化であったが、20年前の第2次臨時行政調査会いわゆる「土光臨調」になって、官民の役割分担をはっきりさせることに主眼が移り、その一つが国鉄の民営化であった。増税なき財政再建も唱えたが、'87年、竹下内閣で消費税が導入された。その頃はバブルの時代で税収も増え、本来やろうとしていた財政・構造改革の話は何の改革もないまま消えた。
'90年に入って、第3次行革審(臨調答申をフォローアップする機関)が発足。地方分権、規制緩和も俎上にあがり、今に至る行革の芽を育てた。'93年10月…ちょうど八戸でフォーラムがあり、鈴木永二会長も来八された。その細川内閣で、政府が立法府・行政府・司法府の三権全体を変えずして行革なしと提唱して行革審は解散した。そういう面では'90年代は不毛の時代であったが、今日、裁判所の改革まで議論しているその端緒を付けたのも'90年代であった。2001年に実施に至った規制改革、地方分権、情報公開等も着々と準備した時代であって、今の携帯電話、ITの普及、金融・保険、バス・タクシーの規制緩和のみならず、医療福祉、社会保障、教育の分野にも競争原理導入の議論が進むなど、その結果として表れてきている。関係者は、20〜30年議論してきたものがついにできた!という思いでいる。
癒着の問題を含めて、政治と行政の問題は、橋本行革の副産物であるが、皮肉にもこの問題を取り上げることで小泉行革が成り立っている。橋本内閣では、行革メニューとしてはラインナップが揃って進み出した。決して良い点は上げられないが、20年前の土光臨調から見れば、大きく様変わりした分野が随分ある。
昨年4月、小泉内閣になって、財政再建、特殊法人改革、郵政三事業改革等'90年代の積み残したものが日の目を見ることができた。特殊法人改革について、昨年12月、一応合理化計画が出来ている。このように、「構造改革」と称して改革が始まっているが、小泉首相の言う財政改革は土光臨調とほぼ同じ手法である。果たして、同じ調子でやって本当に成果が上がるだろうか? 例えば、財政全体のシステムを変えずに歳出カットなど“量”のみを変えるのは、橋本内閣と同じ失敗をすることになる。役所はシステムを守ろうとする。小泉内閣も同じ轍を踏むのではないかと心配している。
このまま莫大な借金を継続していく訳にはいかないので、この基本的システムを変えなければならない。それには、国と地方の財政を切り離すしかない。特殊法人の民営化も一つの方法であるが、これは、道路公団を民営化するしかない、ということではなく、道路計画を地域でどう考えるかという話にしていかなければならない。郵貯にしても、銀行が圧迫されているという懸念も含めて、地元でどう使うかの議論をしない限り改革にはならない。これには、分権を切り口としてシステム改革して行かなくてはならない時期に来たのではないかと私は思っている。
土光臨調は官と民の関係をすっきりさせることも提唱し、中央政府のレベルで進められてきたが、これからは、国と地方自治体の関係が全面的に見直さなければならない。小泉さんが構造改革というなら、その関係を大規模に変えなければならない。ただ、小泉さんにヤレ!ヤレ!だけではだめで、交付税頼みではない地方財源から地域経済の自立戦略を立てていかなければならない。
市町村合併は合併交付金云々だけでは、単に中央政府の末端組織を集めて合理化するというレベルに終わる。地域を一つの経済圏として、地域の経済力をいかに高めて地域の税収を増やすか、この戦略をたてるべきである。この自立戦略がうまくいけば、中央に対しても強いことを言える。
今日のテーマは“行動へ”で、10年前も同様に掲げられたが、残念ながら大した行動には結びつかなかった。途絶えてきたフォーラムの再開を機に、アイデア、思想を広げるレベルは終了し、事例を元に実践的、具体的な議論をし、市民、議員、首長の相互の研鑽の場にしてゆかなくてはならない第2段階にきている。地方分権では議員が条例づくりをしなければならない。全員参加で実践事例を積み重ね、中央政治に対し、自分たちに任せて絶対大丈夫なのだと立証する段階に入ってきているし、そのような活動を是非お願いしたい。
講演 第2部
「地域の自立に向けて 〜連携から県合体へ〜」
木村 守男 氏(青森県知事)
東北はひとつという考えを背景に持ちながら、地方自治の本旨を変えない限り、市町村合併の流れは正しいと思っている。行き着くところは県境を越えた広域連合の流れに入ってきている。財政、人口構造、住民のニーズなど、今のレベルを落とすことなく自立の道を切り開くには、スケールメリットに着目すべきである。心配もあるが、創造性を発揮し住民の安全を確保しつつ、生産性のある快適な環境、人づくりの環境等がそれである。地域の格差、人口のばらつき等は今でもあることで、何も全て均等割でなくてもいい。広域になった場合、いろいろな地域特性を併せ持った新しい地域を構成して、例えば市街地と山間部でそれぞれが抱える問題について補完しあい、自立していけば、子ども達にいろいろな環境を与えることができる。当然、そのようなニーズを吸い上げられる様に合併後の議会にも知恵が求められる。
今、各市町村長に「子育て」について支え合っていこうと呼びかけている。ニーズの吸い上げは、今や行政執行の段階に入っている。人口の少ない地域でも、評議員的組織で意見交換、意見集約したり、住民と知事との直接フォーラム等で、合併後の住民のニーズを吸い上げることができれば、議決機関が必ずしも必要ではなくなる。権限の移譲についても合併後は国から直接市町村に移せばよい。それにより、県の姿も変わってくる。
次は、北東北3県。各県が主体であることを前提に知事サミットを提唱した。合体はせずとも3県による広域行政を、やれるものから積み重ねていく。場所も3県にまたがる「十和田八幡平国立公園」。1回目は青森担当で「観光」、2回目は岩手で「環境」、3回目は秋田で「産業と情報」、一巡して青森県は「子ども」を主題とした。北海道知事にもサミットへの参加を要請し、北東北・北海道連合で連携を強めて、スケールメリットにつなげていきたい。
将来的には東北・北海道連合が実効的に必要に迫られてくると思う。スケールメリットは単に同じ土壌の面の広がりではなく、いろいろな相違点を生かして創造性を発揮してもらうものである。今、北東北の大学統合の話し合いに入っている。明治の人は「教育」を重視した。経済面のみならずいろいろな面において効率を上げるために、3大学がテーブルに着く、そして3県が合体を目指すというのは、歴史的に見ても不都合はない。合併という言葉は「吸収合併」のイメージが強いので、「吸収」ではないという意味で私は「合体」ということばを使っている。
国内は経済不況、高い失業率の中で行政改革、公共事業の見直し、公共機関の統廃合と、痛みを伴うことは分かるが、地方を無視すべきではない。なぜ、新しい力を地方に与えようとしないのか?
もっと「地方から国を変える」という意欲があってもよく、私はそのような声をこれからも出していく。だから、合体に備えて県の政策の柱を立てた。その柱とは、大切な食糧の基盤である農林水産を軸に、福祉日本一、不況に強い文化観光。今、苦しい時代の中にあっても知的充足を求める時代に入っている。福祉の原点は健康。健康と青少年の教育はスポーツにある。これらの柱は合体後も継承できる。このようにして、道州制に向けて少しずつ積み重ねていこうと思う。
事例発表
パート1 「住民自治の現場から」
蟹沢 幸治 氏(八戸市大館地区 自治振興会長)
おだてられてここに上がっているが、人間って不思議なもので、発表の準備をしていると何かその気になってくる。地域づくりというのもそれと同じである。
地方主権、地域主権という言葉は知らないが、自分の住む地域をなんとかしよう、そこでよりよく生きたいという思いは誰にでもある。しかし、7〜8年地域に関わっているが毎日四苦八苦しているのが本当のところだ。例えば、地域づくり団体の一つ、町内会をあげても、仕事のほとんどは上からの下請けで、地域活性化、地域づくりを念頭に置かないと、ただの行事こなし屋になってしまう。
今日は、45年の歴史を有する自治振興会が関わる地域づくり活動に限って話すが、結論を言えば『すべては夢を語ることから始まる』である。
当会(会員45名)はこの5年間、総会に引き続き、講演(勉強会)と当会の核である地域づくりの夢を語る会の2部構成で研修会を実施してきた。
語られた夢は40項目にもわたるが、分野、質的程度、緊急性、長期展望、実施主体などを私の方で整理する。特に行政の役割、支援を要する項目については市庁に出向き、あるいは、市長タウンミーティングの席で意見・要望を示す。また、歴史あるこの地域の観光案内板は、住民自らの手で設置した。バス停の屋根も子ども達が雨宿りできるよう勤労奉仕で出来た。こうして夢を実現したもの、夢から発展した事業の実施と、着実に実を結んでいる。
どの夢や行事をやるにしても、必ず“子ども”を念頭に置くことにしている。子ども達が大人になった時、自分たちのふるさとを誇って語れるような地域づくりをやるのが大人の責務ではないかと思っている。
パート2 「自治条例の現場から」
秋田 佳紀 氏(青森県倉石村 助役)
各種政府諮問機関などの答申等で地方自治体の経営環境が厳しくなってきている中で、生き残りをかけた、地域の再編強化という認識で、足腰の強い地域づくりをしたいという思いから、「倉石村地域きらりアップ事業のアプローチ」と題して、村の伝統、文化、地域の活力を、今後も一体的に持続・発展させていくことを目的として、各集落毎の事業の展開と村づくり基本条例の制定という二本の柱で推進している。
補助金総額300万円を、23の各集落に10万円ずつ、残りを全体に横断的に使用することにして、まず、村づくり基本条例(規制する条例ではなく、つくり育てる条例)の制定、続けて各集落毎に、計画に基づき地域づくり活動を実践(各集落毎に担当職員を配置し、地域づくり事業を支援)してきた。
活動計画の内容は (1) 現状認識、(2) 方向付け、(3) 実践方法、(4) 地域づくりのテーマ・めざす姿・理想像の4つで構成、実践内容は計画内容の各項目毎に5W1H方式で推進した。
条例づくりはその抽象性と時間的余裕の問題で住民の理解を得るのに苦労もあったが、集落毎に説明会を開いたことで前向きに動き出し、また、それと平行する地域づくり活動の組織づくりも徐々に協力が得られた。
合併問題がどのようになっても、各村落が自主的主体性を実践していくことで対応できるように、具体的な実践が進められていく内に各メディアも建設的に取り上げてくれるようになった。
今後、予算配分の新たなルールづくりと各集落の能動的事業による投資効果に沿った継続的経費負担をどのようにしていくかの課題が残っているが、七転び八起きの精神で行きたいと考えている。
パート3 「コミュニティ計画の現場から」
木村 重来 氏(高知市 市民生活部長)
2001年に市の総合計画を策定するにあたり、職員から、市民の要望がいつも予算にない、計画にないで、答えることが出来ず疑問を感じるとの意見が出たのを踏まえ、現在、市が抱える問題を掘り起こして、それをどう解決するかという方針を持って取り組んだ。市民と市民の関係が希薄になってきて、互いの支えあいが揺らぎ、そして、市民と地域の関係も無関心になってきて、個性や歴史を喪失してきていることなどが浮上し、これらの問題を市民の方に投げかけるため、総合計画の中に「コミュニティ計画」として明確に位置づけようということになった。これは、従来の縦割りで策定された総合計画に相互補完させるために横軸に据えた3つの計画の1つで、これできめ細かな行政運営と、本来の意味での市民参加に一歩でも近づけたいと考えた。
準備作業として、(1) 地区整備計画の策定(市が抱える問題を各課が出し、市民が検討し、作る)、(2) 地区カルテの作成(市民が計画策定する準備資料)、(3) 市の職員チームが“まちづくりパートナー”として参加、といった3つのことを実施し、小学校区割で地域組織(コミュニティ計画策定市民会議)を結成し、地域の現状把握・課題解決のための検討、計画のプランニングというステップでまとめて、市長に提案することにした。
役所の作業としては、(1) 課題検討シート(約1,500項目)作成、(2) 項目毎に主幹課へ、(3) 4部会からなる幹事(課長)会、(4) 調整会議、(5) 委員(部局長・助役)会議を経て、「コミュニティ計画」として地域にフィードバックする。
前述のコミュニティ計画策定市民会議は発展してコミュニティ計画推進市民会議となり、そのうちの若手メンバーが集まって「まちづくり未来塾」を設立、まちづくりの学習活動を行っている。
講演 第3部
「共治共創時代を拓く実践 〜スモール・イズ・ビューティフル〜」
清水 聖義 氏(群馬県太田市長)
私が県議会議員の時、太田市役所の建設問題があり、市議会は共産党を除いて全部賛成だった。私は共産党ではないんですが、「いやいや、それはちょっと…100mの高層で、お金もないのに300億円の建設費とは…」と市長になった。当時は情報開示など本当に薄い時代で、市長さんがやっているのは間違いないだろうで20年通っていましたから、情報も何も出てこない。皆(建設に)賛成。市長になって、企業との関係も一線を画すためお中元の不受理宣言をした。
入札も公正な入札をやろうといろいろやってみた。一番安いのはインターネット入札。これで私は脅かされてひどい目に遭い、命の問題になるから、(インターネット入札は)減らそうということにした。でも、これだけでも、水道局全部入れて(節約できた金額は)12億円位ある。この金は新たな行政需要に全部使う。現在、落札価格は89%位です。何も、業者を泣かせるのではなく、適正な価格、適正な水準で利益を得てもらって、税金を納めてもらうというのが一番だと思う。安くなった分は全部市民に返さないとよくない。行政改革というのは市民が今まで以上のサービスを得ることだと思う。
行政は、人間と人間のつながりで街がレベルアップする。私が市長になったとき、私と議会の関係はものすごく悪かった。全部反対で、私は孤独で…。そこで、市民のバックアップを得たいということで、市民に参加していただいて、役所をどうするか考えた。7年目に入ったが、議会でも私は本会議で原稿を読んだことは実は一度もない。自分の気持ちを相手にどうやって伝えるかということばかり考えた。役人が書いた原稿を読み上げるだけでは相手に自分の気持ちを伝えることは出来ないということに気づいた。役所の建設で闘争中だから、読まない方が自分の気持ちを伝えることができる。相手が理解してくれる。やっぱり人間っていうのを感じる行政でなければならなことを、スタートの時点ですごく感じた。
陳情も変だなあと思う。自分が払った税金を使うのに陳情という言葉を使ってお願いする。差別用語になるかも知れないが乞食みたいなものだ。陳情などいらない世の中にしなければならない。行政と市民が一つになれば当たり前のことになっていくのではないですか。市会議員さんも、やってあげたから票を、票をあげるからやってくださいという関係でやる時代は終わったと思う。
我が市では行政審査委員会を設置した。行政自らオンブズマンを作ってしまおうと。だから、行政はギブアップのまま内部を全部見せてしまう。彼らは公認会計士等専門家の立場から、行政が考える以上に考え、無報酬でアドバイスしてくれる。赤字レジャープール閉鎖のアドバイスは問題なく実現した。これはやはり市民参加である。こういうことは結構改革になる。「助役を置かない条例」もやった。その結果、部長がしっかりしてきた。予算査定を事業部制でやったら確実に出来るものに調整・縮小して持ってくるようになった。総務部長も市長も切り捨てるところがない。だから、太田市には査定で切られたという言葉がない。うちは予算を組む時の大前提は人員削減と借金を増やさないこと。この2つだけ。余った金は必ず使い直す。ですから決算ベースは予算より常に20〜40億上です。
借金は国から借りずに銀行に競争させて安い銀行から借りる。今、指定金融機関からは1銭も借りていない。つぶれそうな銀行から借りるのがいい。
今度、太田市民債というのを出すことになった。市民から出資していただき、株式会社太田市を運営していこうという考え方なのだ。そうすれば地方分権なんて当たり前で、国から離脱して、自分たちの街をこんなでかい資産を持って運営出来るあらすじだ。夢物語! もらったお金は市民サービスに向ける。こういうことを考えることも今の地方自治体には必要なことかも知れない。
注目は、規制を撤廃していこうという規制改革会議だ。これが地方分権、地方主権で最高の力を発揮してくると思っている。今までは国が地方に“変われ変われ”と言っていた。今度は、我々が国に対して地方から声を挙げて国を変えていく。そう言う時代が来ているように思う。
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