恋をするなら 〜 ジョージ・ハリスンの "過ぎ去りし日々"
 If I needed someone to love,
 You're the one that I'd be thinking of
 If I needed someone

 もし僕が誰かと恋をするなら
 君こそがまさに僕が思い浮かべる相手だよ
 もし誰かを必要だと思うなら

 "If I Needed Someone"(邦題「恋をするなら」)。単調なリズムと起伏が少なく半音を多用したメロディライン。見事なまでにその後のジョージの曲の特徴をあらわしていながら、しかしキャッチーで思わず口ずさみたくなるこの出世作は、アルバム "Rubber Soul" B面の最後から2番目という重要な位置に収録され、同アルバムからライブで演奏された数少ない曲の一つであり、1966年の日本公演のビデオでもかなり調子っぱずれに歌うジョージの姿をみることができる。そして、その夏のツアーを最後にビートルズは公演活動を中止し再開することなく1970年に解散し、今年で31年もの歳月が流れた。来日当時3歳だった僕にはもちろんその騒動の記憶は全くないが、追体験で聞き込んだ "Rubber Soul" は僕にとってのベストアルバムの位置に登りつめ、この曲も "In My Life" と共にこのアルバムにおけるベストソングとなった。

 元ビートルズのジョージ・ハリスンが2001年11月29日(日本時間30日)に亡くなった。1943年2月25日生まれ。享年58歳。一番若いビートルの早すぎる死を悼む声は、あまり目立たないが静かに世界中に広がっている。ジョージらしいと言えば失礼かもしれないが。

 7月に死期が近いという報道があって以来、近い将来この日が来ることを覚悟していたが、1980年にジョン・レノンが凶弾に倒れたときとは全く違った喪失感が日を経るにつれじわじわと広がってくるのを感じる。「私自身を含むある世代はビートルズとともに成長した。彼らの音楽、演奏、その個性は私たちの人生のバックグラウンドだった」。ジョージの死を追悼するブレア首相の言葉にもあるように、ファブ・フォー(Fab Four=最もいかした4人組)と共に青春の日々を過ごしてきた元若者は世界中に数限りなくいるに違いない。1970年代に遅れてきたビートルマニアとして中高生時代を過ごした僕も、その一人だ。

 死因は喉頭がん、肺がん、脳腫瘍。その原因が喫煙にあることは誰の目にも明らかであり、彼自身もそれを認めている。一番若いメンバーとしてビートルズに加わり、その実力を高めたハンブルグ遠征では彼だけが年齢制限により強制送還されたこともあった。いわゆるツッパリ時代のヤング・ビートルにとって、喫煙が健康に及ぼす影響などは全くの興味の対象外であったに違いない。そして、当時の公衆衛生のレベルからすると、彼らの喫煙習慣はアーティストとして当然許される「格好いい」行為だったのだろう。その後、'60年代の荒波の中で彼らは先頭を切ってマリファナやLSDを体験していく。ジョージはメンバーの中で最も積極的だったと伝えられている。

 また、1999年には自宅に侵入したファンにナイフで胸を刺されて重傷を負うという事件があった。ビートルズのメンバーは4人のうち2人までもが熱狂的なファンに襲われているのだ。ポールが神経質になっているのも当然だろう。そういえば、ポールも熱烈なファンによって殺されたことがあった。これで3人だ。そして、オリジナルメンバーのスチュアート・サトクリフもデビュー前に脳腫瘍で亡くなっている。さらにもう一人、マネージャーのブライアン・エプスタインも薬物中毒で死亡。1998年にはポールの妻リンダも乳がんで亡くなった(ポールは今年再婚している)。

 ジョージに限らず、彼ら4人には常に「元ビートルズの」という肩書きがついてまわり、それは死んでからも変わらなかった。ビートルズの幻影に悩まされ続けたポールも、「イエスタデイ」などの一部のレパートリーを除くと、ステージでビートルズの曲を積極的に演奏できるようになるまで解散から20年もの歳月を要したのだ。そして、ジョージもかつて愛妻パティを奪われた因縁を持つ親友エリック・クラプトンと共に来日した1991年の唯一の日本公演で、"I Want To Tell You" などのビートルズ時代のレパートリーを何曲も披露しているのをライブ盤で聴くことができる。この時がジョージを生で観る最初で最後のチャンスだったのだが、仕事で忙しくその機会を逃してしまった。

 12月3日の毎日新聞のコラムに「ビートルズにそれほど入れ込まなかった人に『ビートルズのメンバーは?』と聞くとたいてい彼の名前だけ出てこない」などと書かれているように、ジョージは4人の中では目立たない「静かなビートル」と思われがちだが、実際には彼一流のシニカルなユーモアは記者会見の受け答えなどでも冴えわたっており(彼がモンティ・パイソンのファンだったことは有名)、ミュージシャン仲間との交流も広く、篤い信頼を集めていたようだ。1971年に彼が呼びかけて開催された大規模なチャリティ公演のはしりである「バングラデシュのコンサート」も、そんな交流の中で生まれたものだったのだろう。そして、初期のビートルズにおいてファンに最も人気があったのも「静かでハンサムなビートル」ジョージだったのだ。

 また、彼のサウンドはミュージシャンなど玄人の間でも人気が高く、ジョンやポールが好きというのではありきたりだと感じるような「ひねた」ファンの中にもひそかなマニアが多かった。ビートルズのコーラスワークにおける彼の声の重要性も指摘されており、"You've Really Got a Hold On Me" では全てのビートルズ曲の中で唯一ジョンとジョージのハーモニーをきくことができる。これが実に良い味を出しているのだが、この組み合わせはその後二度とくり返されることはなかった。

 初期のビートルズのステージでは、ジョージがステージ中央の定位置に陣取り、彼の見せ場である間奏部分で特徴的な細かいステップを踏みながらギターを弾く姿をみることができる("A Hard Day's Night" など)。ちょっと今どきのギタリストのスタイルとは違うユニークなステージングだが、何度か見慣れると「ああジョージだな」と妙に安心したりするから不思議だ。しかし、それにつけても観客席の女の子達の常軌を逸した熱狂ぶりをみるのは楽しい。彼らが1曲演奏するたびに深々とお辞儀をするのも気持ちがいい。そして、ジョン、ポール、ジョージの3人が一つのマイクをはさんで一緒に歌う姿にはあらためて深い感慨をおぼえる("This Boy" など)。

 よく知られているように、ジョージは最初にインド音楽をポピュラーミュージックに取り入れ、瞑想やヒンズー教にも傾倒し、また電子音楽にも積極的でビートルズサウンドにシンセサイザーを導入したのも彼だ。ビートルズ解散後、4人の中でシングルおよびアルバムチャートの両方ではじめてNo.1に輝いたのもジョージだが、その「マイ・スウィート・ロード」(このロードは道ではなく神様の "Lord")は後に盗作で訴えられ敗訴している。しかしながら、ジョージの曲の方が人々の心を打つ名曲であり、盗作騒ぎのエピソードと共に後世に伝えられていくことであろう。

 1976年。彼ら4人のソロ活動が最も盛んだった頃。中学2年生の僕はラジオから流れる彼のヒットソング "You"(邦題「二人はアイ・ラヴ・ユー」)を毎日のように耳にしていた。ジョージらしい綺麗なメロディと線の細いボーカル、彼の代表作の一つだ。そんなある日、クラスで一番人気のあった女の子(豊美というのが本名だが何故か“おトミ”と呼ばれていた)の誕生日に、この曲が収録されたアルバム "Extra Texture"(邦題「ジョージ・ハリスン帝国」)が彼女の机の中に入れてあったのが発見され、クラス中が大騒ぎになった。誰がやったのか名前は書いていない。とすると、彼女に気があるビートルズファンの男子が誕生日プレゼントに入れたのに違いない、ということで犯人捜しが始まった。そして、真っ先にやり玉に挙がったのが僕だ

 確かに僕はクラスで一番のビートルズファンで、もうひとつ悪いことに、その子のことを好きだったのだと思う。しかし、もちろん身に覚えはなく、そんな騒ぎの中で必死になって否定してまわったのだった。ずっと後になって、そのときイエスと答えたら彼女はどう思ったのだろうなどと想像してみたが、当然のことながらもう遅い。まして、本当に自分がやったのではないのだから、そんなことをすれば話が滅茶苦茶になるだけだ。そして、結局誰の仕業かわからないままその場は終わった。当時の中学生にとってLPレコード1枚(2,500円)は好きな女の子へのプレゼントとしても高価なものだ。「彼」も無駄にしたかったわけではないだろう。何らかの方法であとで告白したのかもしれないが、真相はわからない。彼女に会って確かめてみたい気もするが、僕は3年になって奈良から横浜に転校してしまい、それ以来一度も会っていない(おそらく一生会うことはないだろう)。

 ジョージにまつわる僕の個人的な思い出は、実をいうとそれがほとんど唯一のものだ。

 1987年に "Cloud Nine" で見事な復活を遂げ、1989年には新曲を含むソロ後半期のベスト盤CDが発売された。この2枚は当時まだ独身だった僕の車に居座り続け、黄昏時のドライブには欠かせない存在となった。そうして、1990年に僕は独身時代を終えた。

 世紀が変わり2001年9月11日を境にして、人々はふたたびジョンの "Imagine" を聴きはじめた。

 伝えられるところによると、ジョージは悟りを開いており自らの死について覚悟はしていたものの、ポールとリンゴが最期に見舞いに訪れたときには3人で涙を流しあったという。

 この追悼文のタイトルに使ったもう一曲の "All Those Years Ago"(邦題「過ぎ去りし日々」)は、1981年に発表されたジョン・レノンの追悼歌であり、ビートルズ解散後はじめてジョージ、ポール、リンゴが共演した曲となった。

 そう、すべては過ぎ去った日々のことなのだ。

2001.12.05 久芳康朗

リンク

<追記>ジョージの追悼とは直接関係ないが、2000年に発売された "The Beatles 1" に "Please Please Me" が収録されなかった本当の理由をご存じの方はいらっしゃいませんか? (僕にとってそれはビートルズの歴史を踏みつぶす許しがたい暴挙としか思えないのだが)

特別付録 くば小児科ホームページ