千葉すずのいないシドニーと虹色のマント

               

くば小児科クリニック 久芳康朗

■ 東京オリンピック音頭

 いまだに東京オリンピック音頭は本物を聴いたことがない。しかし、幼年時代に枕元にあった目覚まし時計のオルゴールのメロディが東京オリンピック音頭だったので、サビの部分の旋律はその音色と共に今でも鮮明に思い出すことができる。

 その頃は東京に住んでいたのだが、もちろん観戦には行っていない。もし行ったとしても覚えていなかっただろう。同時に開通した新幹線の前で記念撮影した写真が手元にある。まだ2歳の誕生日を過ぎたばかりで、白黒画像の彼方に記憶は霞んで消えた1964年(昭和39年)。国中に活気が溢れていた時代。

 だから、アベベも円谷も直接は知らない。円谷といえばウルトラマンを思い出すが、長い間「えんたに」だと思っていた。チャスラフスカなどという名前を聞くこともあったが、チャフラフスカなのかチャスラフスカなのか口に出してきちんと言うことができない(これも資料を見ながら書いている)。

 人は自分の生きた時代しか知らない。体験したことしか経験していない。自分の経験を元にしてあの頃は良かったとか未来は輝いていたなどと感慨に耽る。私たちの世代にとってそれは、アポロ宇宙船の月面着陸(1969)であり、大阪万博(1970)の太陽の塔であり、ミュンヘン(1972)の月面宙返り、札幌(1972)の70m級ジャンプ金銀銅独占、モントリオール(1976)のコマネチ10点満点であった。

 いまやキューブリックの2001年に突入し、21世紀の輝かしい未来が現実のものとなりつつある。

■ シドニーオリンピック開会式

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 前置きが長くなった。20世紀最後の年、2000年(平成12年)9月に開催されたシドニーオリンピックは、女子マラソンの高橋や柔道の田村、アボリジニのフリーマンらの活躍でまだ記憶に新しいところだが、いま小学生の息子や娘は将来どのような思いでこのオリンピックを振り返るのだろうか。と言うほど実はちゃんと観ていなかったようで、家族全員でTVにかじりついて観たのは日曜早朝に行われた女子マラソンぐらいかもしれない。どうも昔に比べて興味の対象がバラバラになってしまい、世代を越えて共通する思い出をつくりにくいのか、などと書くとまた「昔は良かった」になるのでやめておこう。

 そのシドニー五輪の開会式で誰もが一瞬呆気にとられた出来事として、日本選手団がまとった虹色のマントは記憶に残っているに違いない。実況中継の有働アナも一瞬言葉を失ったこのマントには私も正直驚かされたが、この国にしては思い切ったことをして珍しいこともあるものだと感じつつ、それ以上特に気に留めていなかった。しかし、伝えられたところによると、その日からインターネット上の掲示板には非難の書き込みが殺到し、マスコミも識者の批判的な意見を伝えることによって批判的なスタンスを示した。当初「日本選手団が全世界の人々に感動と期待を与えられるデザイン」と胸を張っていたJOCは、この反応に驚いてデザイナーを公表しないことにしたうえ、その責任者である森英恵は「雨が降ったら着るのだろうと思っていた。開会式に着るとは思わなかった」などという責任逃れの姿勢に終始した。

 開会式から一週間ほどたった頃、筑紫哲也ニュース23の「異論 反論 Objection」でこの問題が取り上げられていたが、街の声は「似合わない」などの意見が主ではあったものの、「紅白日の丸カラーのブレザーよりまし」「きれい」などといった意見も混ざっており、伝えられていたほど非難一色ではなく納得できるものだった。私自身も、なかなか良かったのではないかと思い始めていたところだった。

 時間がたつにつれてマント批判論に疑念を抱き始めた私は、遅ればせながらネット上の掲示板の書き込みをチェックしてみたところ、匿名の掲示板にありがちな無責任な言いっ放しの荒れ方であることを差し引いても、「自分が良くないと思ったから失敗作である」「日本の恥」といった論調の批判的意見が圧倒的多数であり、中には「着物か浴衣にすれば良かった」などと本気で書いているものまであった。マントを擁護する書き込みはごくわずかで、あったとしてもまた批判意見に押しつぶされていくといった状況だった。

 これを読んでマント批判論に対する私の疑念はかなり明らかなものになってきた。この図式は、どこかで見たことがある。たとえば、オウム真理教信者やその子どもが転入したり入学しようとした際にみられた住民やマスコミの反応と相似のものであると考えるようになった。たとえ親が犯罪者であろうが、何の罪もない子どもの転入を拒否したり学校に通う権利を奪うことは、誰がどう考えても法的根拠がないにもかかわらず、その騒動を報道することによってさらに「住民不安」を煽りたてるばかりで、その違法性を伝えようとしないマスコミ。その報道の嵐の中で、異質なものや自分に理解できないものをひたすら排除しようとする「一般市民」。これは、一種の集団ヒステリーと言えなくはないか。この国の人たちは、どうしてこんなにまで余裕がなく心が狭くなってしまったのだろう。あるいは、昔からそうなのか。

 時代劇のごとき単純なる勧善懲悪の論理に反対の声をあげることは難しい。しかし、人が暮らしていく上で、実際にはそんなに簡単に善悪を決められる場面はほとんどないにも関わらず、ある種の世論を背景にした「多数派」の中で少数意見は埋もれていき消されていく。

 無論、インターネットのような匿名の場における議論をもって何らかの世論を代表するものと言うことはできない。また、自分が多数派であって(根拠のあるなしに関わらず)それが正しいという確信を持ったときに、「間違ったもの」を徹底的に攻撃してなくしてしまいたいという気持ちも理解できなくはない。最近の例では、新幹線開業に向けて「八戸十和田湖駅」に改名しようとする動きが市民不在のまま唐突に持ち上がってきたときに、地元のみならず県外在住の地元出身者などから圧倒的な反対の声がネット上に溢れ、短期間でこの動きは潰えた*1。この青森で、小さな風と言うほどではないが市民の確かな力を感じた瞬間でもあった。この「八戸駅改名反対論」が「マント批判論」や「オウム排除論」と本質的にどう異なるのか、私には上手く説明することができない。

 しかし、ネットは本音を自由に語り合うことができるユートピアなどではなく、現実社会における歪みがより増幅された形で映し出される鏡であり、時としてそこに出現するモンスターは、「自由に発言しているという錯覚」の中で目に見えない縛りを受けている自らの化身かもしれず目を背けることはできない。

 このマントについて東奥日報に掲載された辺見庸の論評は、この問題を正面からとりあげて論じた私の知る限り唯一のものである。全文を掲載することはできないので、原文に沿って要約してみる。

■ 国家と不思議なマント(要約)

 辺見 庸 <へんみ・よう 作家。1944年宮城県生まれ。早稲田大卒。著書に「眼の探索」「独航記」「もの食う人びと」「自動起床装置」など>

『「無意識」代弁する慎太郎氏』『五輪で膨らむ共同幻想』 シドニー五輪開会式で日本選手団がまとった派手なマントの評判が芳しくない。筆者も一瞬たじろぎ、次に気恥ずかしくなり、そのように感じる自分に軽い驚きを覚えた。 『なぜ気恥ずかしいか』 石原慎太郎東京都知事は翌日掲載されたインタビュー記事で、「勝負しに行ったのではなく楽しみに行ったというバカがいるが、そんなものは国家の代表じゃねぇよ」と千葉すず選手らに憤慨する一方で、円谷幸吉選手の自殺を「非常に美しい」と讃え、その精神を百分の一でもいいから日本選手は理解すべきだという趣旨のことを訴えている。 『個はますますしぼむ』 この論理は、どこか民衆の無意識を代弁しているようでもある。五輪や地域紛争などでは「国家」や「公」という共同幻想が活性化し「個」など出る幕がなくなる。多くの人々は、内なる慎太郎氏的な無意識から、あの不思議なマントを嫌悪したのではないか。マントは、単に服飾センスだけではなく、国家幻想の濃淡をも照らし返す表象だったのだ。選手は了見の狭い世論などに構わず、マントを脱ぎ捨て、ニッポンも忘れて、ただの個になってシドニーを思いっきり楽しんでくればいいのだ。何も国家を背負うことはない。(要約ここまで)

 マント問題と石原発言を結びつける辺見の論理にそのまま賛成するわけではないが、興味深い指摘であることは確かだ。私が感じたオウム問題との相似も、同じような論理で説明できるのであろうか。

 ここではデザイン的な優劣を含めてマントそのものが失敗だったのかどうかという議論はしない。私個人は支持するが、良くなかったと考えた人が多数であったとしても、それはそれで構わない。また、その歴史的な評価は後世に委ねるしかない。しかし、今回の五輪のシンボルとしてのみならず、現在の日本社会のあり方を問う一つの物差しとしてマントの周辺を更に見回してみることにした。

■ 千葉すず

 ここで千葉すずのことに触れておきたい。

 石原は産経新聞という全国紙のインタビューで彼女のことを「バカ」と断定しているが、10年にもわたり日本のトップを走り続けた天才スイマー千葉の足跡とその本当の姿を知れば、そのような暴言は決して許されるものではない。興味のある方は、雑誌 Number に掲載された特集記事とカナダから E-mail で送られてくる日記を綴ったホームページ「千葉すず スマイルの向こう側」*2をご覧いただければと思う。

 バルセロナに次いで彼女にとって二度目のオリンピックとなったアトランタ五輪の時に、報道陣に向かって連発していた「楽しんでくる」というフレーズは、確かに人々の耳に残っており、違和感を感じた方も少なくなかったであろう。しかし、見かけとは違ってシャイで自分を上手く表現できない若者が、それまで何度もプレッシャーに潰されてきた経験の中で報道攻勢から自らをガードするために発したものであろうことは容易に想像がつく。

 マスコミへのややもすると棘のある発言とは裏腹に、彼女はチームメイトや後輩達から慕われており、文字通りのムードメーカーであった。誰もが魅了された「すずスマイル」は、チームを常に明るい雰囲気にしたが、アトランタではついにその笑顔を見ることはできなかった。そして、一度沈んだチームの勢いが戻ることはなく、日本女子水泳陣は惨敗に終わった。もしも期待されたような成績が残せたなら、その発言をも含めて新しいヒロイン像としてもてはやされたに違いないのだが、期待はずれの成績不振の責任をキャプテンの彼女が一身に背負わされることになった。しかし、私を含めて4年に1回しか水泳を観戦しないようなにわか水泳ファンに、過酷な練習の日々を乗り越えてオリンピックの晴れの舞台で戦った選手を、自分たちの娯楽を満足させることができなかったからといって非難する権利がどこにあるというのだろうか。

 千葉の本当の物語はここから始まる。

 一旦は現役を退いてカナダでジュニアへの指導者として従事する傍ら泳ぎ続けていた彼女は、再び五輪出場を目指して現役に復帰する。以前は自分でも気づいていながら克服することができなかった精神面の弱さもメンタル・トレーニングで鍛えあげ、世界のトップスイマーと共に連戦を重ねて好成績をあげる。そして1999年の日本選手権では100mと200m自由形で立て続けに自らの持つ日本新記録を更新して優勝したのである。その奇跡の復活に誰もが快哉を叫んだのはまだ記憶に新しい。オリンピック代表選考を兼ねた2000年の日本選手権では体調不良などにより調整は不十分で、100mでは源純夏に敗れて3位に終わったが、得意の200mでは悪いなりにもまとめて、五輪A標準記録をクリアするタイムで1989年以来9回目の優勝という偉業を達成した。その千葉を日本水泳連盟は「水泳は個人競技ではなく団体競技」との理由で代表から外しただけでなく、アトランタで4位入賞を果たした女子自由形4×200mリレーの出場まで見送ってしまったのだ。

 その後の経緯については詳しくは触れない。記者会見で語った「選考に不満がある。標準記録を切って優勝したのに、理由が明確でない。納得いかない。今後自分と同じ選手を作りたくない」という言葉にもあるように、自らの出場問題だけではなく、後に続く若い選手たちに公平な環境づくりをしたいとの思いで、スポーツ仲裁裁判所への提訴という従来のスポーツ界の常識では考えられなかった手段にあえて踏み切ったのだ。そして、出場権こそ得られなかったものの代表選考の不透明性が明らかとなり、その目的は半ば達成された。

 シドニー五輪における女子水泳陣の活躍を見届けた千葉は、11月に現役引退を表明し、その華やかで起伏に富んだ競技生活に25歳で終止符を打った。彼女の持つ日本記録はいまだに破られていない。勝負に「もし」は禁物だが、その記録はアトランタとシドニー五輪の200m自由形決勝であれば共に銅メダルに相当するのだ。

 これが、日本人には無理と考えられていた自由形という種目で世界への道を切り開いた女子競泳界最大の功労者である千葉すずにこの国の大人たちが与えた仕打ちである。彼女の提訴に際して、サポーターが街頭およびインターネット上で集めた署名は3万人を突破した。ここに彼女の足跡を記すことで、心からの賛辞と感謝としたい。

■ もっとしなやかに

 話をマントに戻す。千葉すずは提訴という手段で旧態依然とした日本のスポーツ界に突風を吹き込んだが、自身は再びその枠の中に納まることはなく、シドニー五輪開会式において別な角度から波紋を投げかけた虹色のマントをまとって入場することはなかった。彼女がこのマントのことを気に入ったかどうか確かめる術はないが、世論のブーイングをかえって快く感じたのではないかと想像したい。そして、彼女のみならず、報道の中から伝わってくる選手達の声は「見た感じより着た方がきれいです」(神保れい・シンクロナイズドスイミング)というように好意的なものが多かったように感じられた。

 このオリンピックの後に、冬季五輪の後遺症に苦しむ長野県では「しなやかな県政」を訴えた作家の田中康夫が何の組織的な後ろ盾のないまま当選し、東京や栃木でも新しい風が吹いた。しかし、名刺を折り曲げた局長だけでなく、田中新知事について苦々しく感じている人は巷にも少なからずいるように感じられる。「しなやかという言葉の意味がわからない人もいるようだが、辞書にも載っているのに…」と田中は嘆いているが、本人の弁にもあるように、山口百恵を同時代的に体験したかどうかでその理解度に差があるのかもしれない。千葉すずの場合は、それ以上に好き嫌いの評価が分かれるようだ。

 虹色のマント、オウム真理教、八戸駅改名問題、石原慎太郎、千葉すず、田中康夫といった事象をここで取り上げたように関連づけて考えることができるのか、結論めいたものをこじつけるつもりはないし、もとよりそのようなものは存在しないのかもしれない。オウム信者の子が入学するのを拒否した人と、日本選手団のマントを非難した人と、田中に知事を任せようと投票した人は、全く違った人たちなのか、同じ人がその時によって異なった顔を見せたのか、これも判断する材料はない。しかし、何年かたって2000年という節目の年を振り返ったときに、これらのうちいくつかはキーワードとしての重要性を増しているに違いない。

 サマランチIOCおよび堤JOC体制の元で指摘され続けているオリンピック商業主義の裏側については、本稿の主題から外れるのでここでは触れないでおくが、ここ青森県においても誰が呼んだか知らないし誰もが皆知らない冬季アジア大会なるものが開催されようとしている。わざわざ好き好んで長野県と同じ轍を踏もうとしているのかもしれないが、これも今となっては後世の判断に任せるしかないだろう。

 そういうわけで、多くの人に失敗作と断定されたマントを、私は何とかして入手してこの時代の象徴として末永く家宝にして伝えていきたいと願っている。ネット上のオークションでちょっと探してみたが、さすがに見つけることはできなかった。この拙文をお読みいただいた方の中で、あんなマントなんて見るのもイヤだというオリンピック選手を知り合いにお持ちの方はご一報いただければと思う。

 司馬遼太郎(1923〜1996)の『この国のかたち』を読みながらこの稿を書いた。フジ子・ヘミング(生年不詳)*3の『奇蹟のカンパネラ』はこの年を通じて日曜午後の愛聴盤となった。土に生きた農民画家・常田健(1910〜2000)*4をはじめて知り衝撃を受けてから一年余りで、急逝の報をきいた。NHKの『プロジェクトX』*5で中島みゆき(1952〜)が唄うエンディングテーマは、この国の戦後を築いた親父達の世代とその後に続くものへの賛歌となった。世紀末を経て何かが大きく変わろうとし、残るものは残り、その影でひっそりと消えていったものも少なくないに違いない。

 高橋が駆け抜けたシドニーはさわやかな秋晴れではなくまだ春も早い9月24日、快晴の日曜の朝の夢のような2時間23分14秒であった。「20世紀を代表する女性」にも選ばれた高橋の得意のフレーズが、4年前の千葉とほとんど同じものであることに気づいた人は少ない。

(文中敬称略)

*1 http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/hachieki/index.html
*2 http://www.number.ne.jp/chiba_suzu/index.html
*3 http://www.jvcmusic.co.jp/classic/fujiko/index.html
*4 http://tsuneken.tripod.co.jp/
*5 http://www.nhk.or.jp/projectx/index.htm

この文章は、東北大学医学部艮陵同窓会三八支部会報「艮陵」17号(2001年春発行)に掲載予定のものです


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